サイボーグ009大百科 完結編の感想

 

 以前の日記のようなメモをみましたら、この本を入手したのが2003年10月12日でした。新ゼロが終了してから発売されたもののようで、スタッフのコメントなどが満載です。それはそれは一生懸命に読んだのですね。その時の感想をいろいろ書き綴っていたので、ここで紹介したいと思います。


 ・・・スタッフのコメントなど読んだ中で、結構ショックだったのが、芦田さんのコメント!最後の方は“いやになっちゃって”とまで言っています。それに、“ジョーは、最初から軟弱に”とか、“ジョーは機械的に優れているだけで・・・”などなど。私は、あの作品は、みんなが一致団結して、満足して終わったと、信じてた(信じたかった)のだから・・・。
 でも、よくよく考えてみると、仕事って、そんなものかもしれません。それぞれみんな、思い入れがあるわけだけど、みんなが満足する方向に進むなんて、所詮無理なのかもしれません。子供だった私には“夢”でも、製作者の方々にとっては、仕事だったんですよね。仕事のプロジェクトを想像すると、やっぱりメンバーの中には意見の食い違いもあるし、中には気乗りしない人もいてもおかしくない。・・・そんな現実を思うと、ちょっと辛く、寂しくなります・・・。
 脚本の辻さんや作画監督の芦田さんは、最初の神との戦いからの路線変更に不満が残った、というご様子ですね。でも、監督の高橋さんにしてみれば、話が大きすぎて手に余ったということだったから、これは仕方がないことだと思います。これはきっと高橋さんひとりの責任ではなく、その当時のスタッフが結集してやっぱり無理だったから、ああいう結果になってしまったのだろうと思うんですよね・・・。。そこにサジェスチョンできなかった、お二人にも責任の一端はあるような気がするのですが。
 スタッフのコメントを読みながら、おもしろいなー、とおもったのが、このシリーズで“やり残した”とか、不満だったことを、結果的に反映しているのが、平成版009ともいえるんだ、という気がしてきたことです。例えば、「ジョーは機械的に優れているだけで、判断力、企画力はない→他のメンバーがもっと活躍できるはず→平成版では、ジョーではなく004がリーダーシップをかなりとっている。」とか、「ジェットがフランソワーズに片思い、ってのをやってみたかった→平成版、そのまんま。」とか。まー、そういう希望をいれていくとまた、他方でそれに対する不満が出てくるわけで・・・。私は004リーダー、というような感じのシチュエーションはやはり最後まであまり好きになれなかったですし。私は、主役は主役でいい、とおもっているので、新ゼロ程度のリーダーシップはOK!と思うのですが。
 あと、もう一つ言いたいことが!・・・ジョーとフランソワーズの関係について、脚本家のどなたかが、“愛ではなく、戦士としての安らぎを求めているだけ、”と表現されていましたが、私は、それは違うと思うし、思いたい。この二人はたまたま戦士だから、戦士としての安らぎを求めるのは当然です。でも、それって、愛そのものではないのかな。愛、って、そんな遠くのものではなく、日々の生活の中から育むものだってあるのだと思いますし。彼らはたまたま戦士だから“戦士として”お互いに安らぎを求めてるだけで、これを自分たちの環境に当てはめてみれば、やはり自分の生活空間の周りにいる人に引かれ、愛するようになるのが自然なことなのではないでしょうか。言ってみれば、二人の関係だって、職場恋愛みたいなものじゃないですか(笑)・・・。そういう身近な環境でお互いをいたわりあい、大切に思う、というのは、やっぱり、普通の愛の形のひとつだと思うのですが!!

 ・・・わはは。結局、スタッフに対する反論が書きたかったのでしょうか、私。そんな目くじら立ててもしょうがないのにねえ・・・(笑)。でも、初めて読んだときはきっと、熱くなったんですねえ。・・・今あの本を読み返すと、また違った感想がいろいろあるのかもしれませんが、まあ、これはこれでいいかなあ、と思います。
 
 平ゼロみて、新ゼロのことを思い出して、子供のころの思いがよみがえってきて・・・私としては、“だいすきなゼロゼロナイン”への思いを大事にしたかったんですね。でも、いろんな情報が入ってきて・・・御大も含めた当時の製作者側の人たちには、またいろいろな思いがあり、それが必ずしも“私のすきなゼロゼロナイン”へのプラス評価ばかりではなかったという現実に直面しました。それで、かなりショックを受けてしまっていたのが、この頃だったかもしれません。今は、もう少し冷静になっていると思います(笑)