なんじゃこりゃ〜〜!!!(怒)・・・と、思わず叫びたくなった、このシチュエーション。何と、このアラ・パチスで、“ヴァレンチノ展”が開催されていたんです。マネキン、邪魔・・・・・・。ええ、素敵なお衣装は、たくさん見ることができましたよ。もちろん。でもね〜・・・・・・。
これもアウグストゥスが、長く続いた内戦の終結を記念して建てたもので、紀元前13年に着工、9年に完成しました。アウグストゥスの努力による平和の到来を祝い、その平和が長く続くようにと願うローマ人の思いの象徴であると同時に、皇帝に対する礼賛の目的もあったようです。
気を取り直して、写真は撮ってます、ちゃんと(笑)
まずは、正面右側。イタリアに上陸したアエネイアスが、ペナテス神の前で犠牲を捧げているところ。髭を生やしているのがアエネイアス。アエネイアスは、ユリウス一門のご先祖様、ってことになっていますから、ユリウス一門の、そしてアウグストゥスの出自の正当性をアピールするためにも、このシーンが必要なようです。
続いて向かって右側面。アウグストゥスの家族が描かれています。ここで、塩野七生氏のローマ人の物語での説明を引用します。
“・・・警士たちを先に立ててのアウグストゥスが、顔と左半身の一部のみだが遺っている。・・・・・・摩滅も激しい現状から想像しても、トーガの端で頭部をおおった上にさらに月桂冠をいただいた姿ではなかったかと思う。だが、頬の線やひたいにかかる頭髪の様子は、五十歳を越えた男のものとはとても思えない。アウグストゥスにつづく神祇官たちの後に現れるアグリッパの顔のほうは、確実に五十を越えた男のものである。・・・・・・一方、アグリッパとは同年のアウグストゥスの顔は、ここでも三十代半ばで止まったままなのだ。・・・・・・” アウグストゥスって、ほんとに美男をひけらかしているような感じがしちゃって(本当は政治的意味もあったらしいですが)気に入らないです!
・・・あれ、写真みたら、ここにアウグストゥスが入っていません!(笑)あらら・・・でも、まあ・・・私の頭の中はティベリウスでいっぱいなので・・・お許しを!! この写真では、頭(手前も奥も入れて)7つ目の、トーガで頭を覆っているのが、アグリッパです。以後、奥側は無視して、次の女性がティベリウスの母(アウグストゥスの妻)リヴィア、その次がティベリウス、次の次の、一人だけ軍装なのが、弟のドゥルースス。彼は、祭壇造営と同時期に行われたゲルマニア遠征で総司令官であって、完成式にも欠席だったのです。
しょうがないので、アウグストゥスをアップで。左を向いている方。
ティベリウスのアップ。ちょっと角度も変えてみて(笑)
結構かっこいいと思うんですが・・・・・・
すみませんが、他の面は、省略!(私的に萌えないので・・・笑)
☆ フォロ・ロマーノ(Foro Romano) ☆
ここからは、現地ツアー会社による半日観光です・・・。(でも、日本人は私たち一組だけでした)
これは、カンピドーリオ(カピトリーノ)の丘からみた、フォロ・ロマーノです。現在では、瓦礫が転がっているだけ・・・のようにも見えますが、かつてはここは、ローマの政治、経済の中心地でした。フォロとは、“フォーラム”の語源で、広場、という意味(だったと思います、笑)。今回もこの中を散策することはかなわず、よって、どれが何の遺跡かいまひとつはっきり理解していません(泣)。でも〜♪ここに、数少ない、ティベリウスが関わった建造物があるのです。それは・・・右側に柱3本が残っている建物、カストルとポルックスの神殿です。紀元前499年に、追放された7代目の王“尊大なタルクィニウス”とローマとの戦争での勝利を約束した双子の神に捧げられたもので、ティベリウスが修復、再建したものが現在残っているのです。ティベリウスは緊縮財政を布いたので、ローマ市内にはほとんど彼の建造物はないのです。だから、これは貴重な逸品(笑)!!
遠くにコロッセオが見えます。コロッセオは、多くのフォロ・ロマーノの建造物と比べると結構新しく、ヴェシパシアヌス帝により着工(72年)、ティトス帝のときに完成します。
☆ パラティーノの丘(Monte Palatino) ☆
同じく、カピトリーノの丘から望んだ、パラティーノの丘です。古代では、高級住宅街、といったところでしょうか。この一角に、アウグストゥスの家族が住んでいました。・・・ということは、当然、ティベリウスも♪皇帝時代のティベリウスの宮殿跡も若干は残っているらしいので、いつか行ってみたいです・・・。でも、ここでの彼の生活は、不幸だったんです・・・。
☆ マルケルス劇場(Teatro di Marcello) ☆
カエサルが建設を始め、アウグストゥスによって紀元前11年ごろ完成された劇場。本来は、建造した人の名を冠するべきなのに、“マルケルス劇場”と名づけられているのは、これより10年前にアウグストゥスの甥であるマルケルスが病死したことを悲しんだためだとか。自分の血を引く後継者と考えていたアウグストゥスは、相当落胆したようです。・・・この頃から、アウグストゥスの“血への執着”は表れていたのですね。
一番上の階は、後世に改造されたもののようです。また、比較的、にしても、大理石が残っているのは、中世以降個人の持ちものとなっていたから、とのことです。
☆ サン・パオロ・フォーリ・レ・ムーラ教会(San Paolo fuori le Mura) ☆
いきなり、ローマ市外(城壁の外)へ。この教会名も、“城壁外の”という意味があるそうです。ローマの4大聖堂のうちのひとつで、ヴァチカン市国の領地となっています。
コンスタンティヌス帝によって、聖パオロの墓の上に立てられた教会で、古代ローマの建築様式を踏襲しています。しかし、現在の建物は、1823年の火災のあとに再建されたものだそうです。中には、歴代法王の肖像画、その他美しいモザイク画などがあります。
☆ コンスタンティヌス帝の凱旋門(Arco di Constantino) ☆
再び、ローマ市内に戻ってまいりました。315年、ミルヴィオ橋の戦いの勝利を称えて、建立された凱旋門。コロッセオの横に建っているのは、フォロ・ロマーノ内に場所がなかったためなのだそうです。また、装飾は、ほとんど、過去の建造物から持ってこられたもののようです。
そして、振り返ると・・・大きな通りがあります。これは、ローマ城壁外からカピトリーノの丘のユピテル神殿に向かう道(この方向は、城壁外に向いていますが・・・)であり、凱旋式での通り道でもありました。ティベリウスもきっと、ここを通ったに違いない・・・そう思うと感慨深いものが・・・♪ただし、両側の唐傘松は、おそらく後世に植えられたものでしょう。2000年前にしては、木が細いような気がしますし・・・。それに、ローマ人は、道のすぐ脇に木を植えることはしなかったようです。(街道も、道と並木の間はかなりあいていたらしい・・・)木の根が、道の舗装を乱すのを嫌ったようです。う〜ん、でも、この幅だったら、あり得なくもないのかしら・・・???
これにて、半日観光は終わり。
☆ フォーリ・インペリアーリ(Fori Imperiali) ☆
ムッソリーニによって、“帝国の首都にふさわしい”通りとして、(実は軍隊行進用?)に作られた道の両側には、皇帝たちのフォロの跡が続いています。かつてこの一帯は、カエサルに始まり、皇帝たちが次々とフォロを造営した場所で、その真ん中を道路が突っ切ってしまってます。よって、この道路の下には、今の多くの遺跡が眠っているのだそうです。
写真はまず、トライアヌスの記念柱。この表面には、ダキア戦役の様子が浮き彫りで表現されています。
左側は、カエサルのフォロの跡。残っている柱は、ユリウス家のご先祖様のヴェヌス(=ヴィーナス:アエネイアスのお母さんですからね!)の神殿。右側は、カエサルのフォロの前に建てられているカエサルの像。
☆ トレヴィの泉(Fontana di Trevi) ☆
あまりに有名な泉ですね。後ろ向きにコインを投げると再びローマを訪れることができるという言い伝えがあります。でも、私はこれまで、コインを投げたことはありません(笑)。
ローマは古代から上下水道が発達していました。水道は、水質維持のため流しっぱなしとなっており、水道の末端に泉を作るのが慣わしだったようです。この泉の起源は古く、アウグストゥスの右腕であったアグリッパの浴場のために引かれた“ヴィルゴ水道”から水が供給されています。(この上水道は、古代ローマの水道のうちただひとつだけ修復され、ローマ中の噴水に水を供給しているそうです)
現在の泉を完成させたのは、1730年、ニコラ・サルヴィという、当時ほとんど無名の建築家だそうです。でも、ベルニーニの残したデザインという説は根強いとか・・・。
これで、この日の観光は終わりです〜