2日目(27日)その1


** この日の観光コース **

 ナポリ 〜 カンネ 〜 バルレッタ 
〜 ナポリ 

これまで、何度となく外から眺めていながらも中を歩く機会が一度もなかった、フォロ・ロマーノとパラティーノの丘。
今回は、やっと念願がかない、中を歩き回ることができました!
ですが、さすがに真夏のローマ。炎天下のお散歩は結構疲れました(笑)
解説にはかなり温度差が。どうしても、愛の差が出てしまいますね・・・(
笑) 




☆ 卵城(ホテルの窓から)  ☆

 ローマ乗り継ぎで空路ナポリに入りました。 う〜ん・・・乗り継ぎ時間を考えると電車のほうがよかったかも。まあとにかく。ナポリのホテルに着いたのはもう、日付の変わった27日でした。 ホテルに着いて窓の外を見ると、卵城の上に花火が! 何のイベントかわかりませんが、卵城から人がいっぱい出てきたので、何かあったのは確かなんですけどね(笑)。 残念ながら、花火を写真に収めることはできませんでした。
 ・・・ということで。左は花火が上がった直後の卵城、右は翌朝の写真です。

    

 こちらは昼間の卵城。 卵城の詳細については、2011年の旅の記録に記載しています。→こちら



☆ カンネへ ☆

 さあ。いきなり、今回の旅のメインイベントです!そう、カンネへの日帰り旅行!ホテルからタクシーでイタリア半島を横断、カンネの町に向かいます・・・。 高速道路をベンツのタクシーでびゅんびゅん飛ばします!  ちなみに、カンネへは電車でもいけますが、何しろ電車の本数が少なく乗り継ぎも悪いんですよね。それで時間のロスが大きいと判断しまして、タクシーチャーターを決断しました。電車の場合は、最寄のバルレッタの町から、やはり車でカンネの遺跡に向かうことになります。
 そして途中の丘の上には、風力発電機がいっぱい!それはそれで結構壮観なんですが・・・運転手のLunzioさんは景色が悪いとぼやいていましたね。 あと、結構近くはうるさいらしいですね。

   

 そして、バルレッタ(カンネ近くの町)の出口で高速を終えい、ブドウ畑の間を縫って走ります。 この辺のワインもおいしそうですね〜(笑)!

   

 おっ。いよいよ、カンネ古戦場跡(ってちょっと意訳)の看板が!この辺はオリーブっぽいですね。 ほんと、見渡す限り農地が広がっています。

    



☆ カンネの博物館(なんていうかわからない・・・汗)とカンネ(Canne)の遺跡 ☆


 カンネ、それは、ローマが歴史的大敗を喫した会戦の場所。夫が、ローマを恐怖のどん底に陥れた張本人のハンニバルをこよなく愛しておりますことから、今回ここを訪れることにしました。
 カンネの歴史は3つの時代に節目?があるようです。ひとつは、ハンニバルの時代。次は6世紀にバルバリアンに荒らされたとき、そしてその次は11世紀にノルマン人に破壊されたとき、だそうです。その後、破壊のダメージもあったのかもしれませんが、他に川がだんだん小さくなっていくなど、居住環境が悪化して人々はより住みやすいバルレッタに移住したのだそうです。
 さて。下の写真は遺跡の横というか麓というか・・・にある小さな博物館。ここでガイドのAnnaさんとまちあわせです。 平屋の上に丘がみえますが、あの辺が遺跡です。



 
 ちなみにここ、博物館名がわかりません(汗)。チケットはもらいましたが、どうも博物館名は書かれていません。入場料はとられませんでしたが、(チケットに無料と書いてある・・・)そのかわりパンフもなしで。左は表の看板ですが、「カンネの戦い」としか書いてないですし。
 でもそんなゆる〜い博物館なんですが、写真撮影は禁止、なんです。。。 それは残念なのですが、博物館内にも、結局「カンネの戦い」に関する発掘品ってないんですよね。

 待ち合わせ場所は博物館ですが、まずは博物館を抜けて遺跡の見学から。何しろ灼熱の太陽の下、歩き回るのは結構大変!(まあでも、小さな町のようなので、さほど広くはありませんでしたが。。。 それでも、一応この街もメインストリートがあり、お城も存在していたみたいです。今残っているお城はフレデリック2世(イタリア語ではフェデリーコ2世かな?)の時代だそうです。(ちなみに彼のおじいさんはバルバロッサ、ですって。バルバロッサって、複数の人を表しているので、どのバルバロッサかは確認しないと・・・ですかね。)
 下は、ところどころに立っていた解説の看板のひとつ。 



 写真を撮りながら歩いていたら、夫やガイドさんから大きく遅れてしまいました(汗)。が、あまりの暑さ(熱さ)で、頑張って走る気にもなれず・・・。遺跡は丘の上のような場所に広がっています。でも、途中にもまたブドウ畑も見えたりして。(写真右)

   

 坂を登りきったくらいのところに(かつての)町への入り口が。そこにはまず、お城(というのか、城壁なのか・・・?)があります。右の写真は街中にはいってからお城を後ろ向きに撮ったもの。今残っているのは、11世紀の遺跡のようです。黄色い石はライムストーンと呼ばれるもので、この辺りで採れる石のようです。

    
 そして、町はこんな感じ。・・・まあ、建物は何も残っていませんが。でも、道はちゃんと縦横に走っているんです。これはメインストリートで、東西に走っているようです。6世紀くらいにノルマン人に破壊されるまでの街並みの跡だそうです。

 そして、道の両脇には、いろんな時代と思われるような柱がたてられています。いろいろなところから持ってきて、再利用していたようです。黒っぽい石の柱はアフリカ産の石で造られたもの。 ・・・そしてちなみに、左は柱じゃないですが・・・墓石。そんなものまで再利用ですか・・・(汗)。要は、柱はローマ時代のもの、町のつくりもローマ時代のものを反映してはいるけれど、町の形態はローマ時代とは違っているのだそうです。ノルマン人の時代とか。 そして、発掘されたのは、ムッソリーニの時代。彼は、思想はともかくとして、古代遺跡発掘などに関してはいろいろ功績があるみたいですね。

   

 メインストリートから脇道に入ったところ。道の下に空洞が。これは、大きいものは穀物などの貯蔵に使われていたものだそうです。また、深い穴も奥にあるのですが、そちらは井戸だそうです。

    

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 こちらはトライアヌス時代のマイルストーンらしいです。ここにはこれらと合わせて全部で4本のマイルストーンがあるのだとか。場所はオリジナルポジションではないそう。ということは、これも再利用でしょうか???

    

 これもマイルストーンっぽい!どこをみたらいつの時代のものかわかるのかがわからないので、上記のトライアヌス時代のものの一つかどうか不明です(笑)。ちゃんとガイドさんに確認すればよかった・・・!!!     
         こちらは水路跡のようです・・・。水道・・・かな??ちょっと傷みが激しすぎますよね。
 こちらは臼のよう。油を作ったり麦を引いたりしたものではないかと。       

 町の奥のほうには教会が二つあります。お墓もあったようで、骨も出てきたそうです。この辺の遺跡がそう。。。右のほうは、手前が礼拝堂・・・だったかな?
 ギリシャの大理石が使われているみたいで、奥のほうが古いみたいです。右の写真のほうが奥だったかなあ。(1年以上経ってるので、記憶がもうなしです・・・あ〜あ) 時代は、6世紀のものと13世紀のもの、みたい。

    

 こちら、下の遺跡の上に上の遺跡の床のモザイクがのこっています。これが2階建てだったのか、それとも古い遺跡の上に新しい建物を乗せたのか・・・そんな話も忘れてしまいました。。。

    

 そしてそして・・・遺跡を抜けて丘の端っこにきました。この眼下に広がっているのが、カンネの平原です!!

この丘の高さは標高50m程度みたいです。まああまり大したことはないですが。ここから直接駆け降りるのはちょっと無理そうな感じ。


    


 ただ。ここで繰り広げられたといわれる闘の詳細はまったくもって不明のようです。どのあたりにどちらの軍の陣があったのかも。しかも・・・この辺からは、戦場にかかわるようなものは何も発掘されていないのだとか。 もちろん、このあたりは私有地ですから、自由に発掘が行えないという事情もあるようです。それにしても何も出てこないというのはおかしいのでは?? ・・・ということで、研究者の間では、実はカンネの戦いが行われたのは別の場所では、という説もあるようです。 この広い平原の向こうに川があるらしいのですが、その向こう、ナポリ側には(17世紀まで?)別の川があり、そのあたりが本当のカンネでは、と。TROIA(トロイア)とLUCERA(
?)の間あたりらしいのですが、こちらの場所からはいろいろな発掘品がでているようです。 ですので・・・「カンネ」の地名としてはこちらに残ったが、実際の場所は別にあったのかも、という仮説も何となく否定できないみたい。
 あ。ちなみに、この柱、元からここにあったわけではなく、ムッソリーニが設置したらしいです。それを聞いた夫、がっかり(笑)。 

 まあそれでも。今は、ここがカンネと信じて思いをはせます(笑)。 こちら方向は、アドリア海側です。縮小したらわからなくなっちゃいましたが、彼方に少しだけ海が見えています。
 このあたりが遺跡の端っこです。ここでUターンして、博物館に向かいます・・・。

    



☆ 博物館 ☆


   博物館の中にも、残念ながらカンネの戦いにまつわる発掘品は展示されていません。ハンニバル関連はこういった説明パネルのみです。
 撮影は認められていませんでしたが、このようにちょっとだけ写真を撮ってしまいました!
 こちらのハンサムな横顔、ハンニバル、だそうです! でも、こんな像って見たことない。どこにあるんだろう???まだ、若かりし頃に見えますね。
   

 この辺で発掘された品々。 紀元前4〜5世紀のものみたいです。 中央の人型みたいなのは女性/女神の像。このほかFire stomeの矢じりなんかもありました。これらはローマの前らしく、DAUNIAと呼ばれているみたい。(これは国か?時代か??すいません、もはやわかりません(汗)。)ともかく、紀元前7世紀から紀元前2,3世紀くらいまでのことを指すみたいです。

  この近くのCanosaは古くから壺などの焼き物の産地のようです。元はギリシャタイプの模造から始まっているそうです。水、油やワインを入れる壺のかけらが発掘されているのです。そして、ここにいくつか、ナチスドイツのマークのような印を見ることができました。紀元前8世紀の陶器なんかに刻印されているのです。昔はこのマーク、、positiveイメージだったそうです。

 残念ながら、博物館内の写真は上ので終わりです。そしてこの右の写真は、博物館入り口のカウンターに貼られていたもの。この写真ではわかりにくいですが、例の柱が建っている向こうで戦闘が繰り広げられています。でも、柱は当時はなかったのですから・・・あそこに立って、戦闘風景を思い浮かべないといけないってことでしょうかね〜!
    
  この絵は、入り口(受付)に向かって左側の壁に飾られていた写真。なんだかちょっと違うのでは?という気がしないでもないのですが・・・。だって、アラビアンナイトのような衣装やターバンなんですもの! フェニキア人ってどんな恰好していたのか知りませんが、少なくともターバンってイスラム教なんじゃないんでしょうかねえ???ご存じの方がいらしたら是非教えていただきたく・・・!



  ハンニバルの象は、最初は30頭もいたのに、最後には3頭になったとか。(ガイドさんより) なぜ彼はローマを攻略しなかったのか、が謎として語り継がれているみたいです。
 




☆ バルレッタの町(Barletta) ☆


 カンネの最寄の町です。とはいっても、車で結構走ったきがします。カンネからこの町に来る途中では、有名なデル・モンテ城が彼方に見えました。バルレッタは海沿いの町で、リゾート地のようでした。 
 この街は、フランスとイタリアとの戦いで有名になった町、と、ガイドさんに言われました。このへんの歴史に疎いので、詳細は私にはわからないな〜と思ったら。なんて便利な世の中、ちょっとネット検索したら出てきました(笑)。イタリア人とフランス人の騎士団が決闘した、「バルレッタの決闘」で有名なのだそうです。フランス人がイタリア人を馬鹿にしたことを発端とした決闘らしいのですが・・・このころから、イタリア人って、“ヘタリア”と思われていたのか・・・(汗)。 
 下の写真、左は車を降りて、次に紹介する城の横っちょに向かうところ。右は途中海に向かう(と思われる)道。

    
    


☆ 城 (Castello) ☆




 いきなり「城」で、すみません・・・。看板には、「Castello」としか書いてないんですよ。でも、ちょっとWebで検索してみると、バルレッタ城(Castello di Barletta)と書いてありました。 まあだから、そうなのかもしれませんね。 しかしさっきの博物館といい、この城といい、名前がちゃんと表示されてないんですねえ、この州?町?は・・・。
 で。この城ですが、ガイドさんによると・・・11〜12世紀、ノルマン人フェデリーコ2世によって建造されたものを次の人が大きくし、アンジュー家に引き継がれたみたい。さらにカルロス5世が拡大したようです。南イタリアで最も大きな城の一つ。

 上の写真の向かって右側に、城へ続く橋と入り口があります。この橋、昔は大きな木の橋だったのだそうです。この石造りの橋は18世紀に完成したとか。木の部分は端っこにちょっとだけ残ってます。 
 
 ちなみに。この先の城の入り口を入ったところにBook Shopがあり、夫はここでハンニバルの本(絵本みたいなものですけどね)を購入しました。何しろカンネには何もありませんでしたから・・・。
 城内の見学は、残念ながらしませんでした。。。が、城の中にも教会があったりするみたい。
    
 


☆ サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂 (Cattedrale di S.Maggiore) ☆




 後から調べると、「プーリア地方の中で教皇を呈する四教会の一つである聖マリア・マッジョーレ教会(1140年建立、1267年奉納)は町の信仰の中心地となっています。」と書かれていました。 上の写真は教会の正面。下の2枚の写真は後ろ側、城のほうから教会を見たところです。 下の写真の右に見える党の高さは43m。 そして、この教会も城もともにTrani stoneという白い石でできています。(もしかしたら、石灰岩・トラヴァーチンの語源だったりするのかなあ?) Traniとは、アッピア街道ができたときの町のようで、ロマネスク様式の大聖堂があるそうです。ユダヤ人のrichな町、という風にガイドさんが説明してくれました。

    
  

 こちらは、教会の右側の側面です。塔の下をくぐった向こう・・・。 この建物、後ろ側はゴシック式、前側はロマネスク式となっています。左の写真はその境目付近。 右の写真は、昔の出入口?をつぶしたあと。アーチ型は、ロマネスク式ですね。
 ・・・メモには、“いいもの”と“悪者(Evil)との戦いのレリーフ(人と動物が描かれているみたい)があるとか書いてあるんですが、それは、このアーチ部分のことかな・・・。すいません、ここも記憶が曖昧。。。

    

 正面の写真をもう一度。中央の入り口は、ルネサンス時代に造られたものだそうです。ここにも私メモ書いてて、「両端のライオンはエントランスにあった」 と。でも、写真などみても、ライオンがどこにも見当たらない(汗)。





☆ サン・ピエトロ教会(Chiesa di S.Pietro) ☆




 サンタ・マリア・マッジョーレ教会に向かって左ななめ後ろにある教会。ファサードのところには、聖ピエトロさんと思しき人がシンボルの鍵を持ったようなレリーフがあります。なんでも、聖ピエトロさんはローマに来る前に南イタリアにも滞在?住んで?いたときがあったそうです。

☆ 町の散策 ☆


    
    

 教会を背に旧市街を歩いていきます。振り返ってサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂の塔を見たのが左の写真。手前に日よけのあるお店は、地元で評判のリストランテ?トラットリア?です。 
 一方、右の写真は町の奥のほうをうつしたもの。シエスタの時間だったと思いますし、何しろ焼けるような暑さ・・・熱さでしたので、人通りはほとんどなし。

 店構えはちっちゃな食堂??バール?までもいかないようなお店でしたが、通りにテーブルを並べていたところでだいぶ遅いお昼ご飯。これ、3人前の、いわゆるおつまみセット、みたいなものなんですが、すごい量だ・・・・・・。大しておなかすいてないからと頼んだものだったんですが。 結局食べきれず、持ち帰りました・・・。       

 お昼を食べてからさらにしばらく歩くと、車の通る大通りに。そしてここにも教会が。サント・セポルク聖堂というみたいです。この教会の前のブロンズ像、ガイドさんはコンスタンティヌスとおっしゃっていた(ような気がする)のですが・・・調べると、東ローマ帝国の皇帝ヘラクレイオスだとか、テオドシウス2世だとかで・・・。あと、ガイドさんは、コンスタンティノープルから運ぶ途中で残されたもの、とおっしゃったと思ったのですが、コンスタンティノープル“から”運ばれる途中に船が難破し、それが引き上げられた、と書かれているものがありました。

     

 ぐるんと回って、たぶん方向としては、お城のほうに戻る途中。右の写真、これも有名なリストランテのようです。なかなか雰囲気のよいお店。

    
   多分その近所にあった看板。これ、たぶん、例のフランスとの決闘の絵、なんですね。 


 こんな風にぷらぷらと町を散策したあと、車に乗り町を後にしました。町中でちょうど電車が通って踏切が閉まり、ちょっと渋滞にはまりました。めったにない電車!  そして・・・ガイドさんは、なんと高速の入り口で車を降りました。そこまで、だんなさんがお迎えに来るとおっしゃってました!

その2へ続く


2012.10.18

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