秋になれば |
空気が凍てつくように冷たくなり、紅葉が色づく季節になった。 僕は季節の移り変わりにそれほど敏感なわけじゃなかったけど、 それでも普通の日本人並みには、周りの変化には気づく。 でも、最初に紅葉に気づいてそう云ったのは、僕ではなく、フランソワーズだった。 「きれいね」 ギルモア研究所から歩いて30分くらい。 なんてことのない普通の場所だった。 さびれた神社の裏にひっそりと佇む、一本の大きな紅葉の木。 より多くの太陽の光を浴びようとするかのように、枝は崩れかけた土塀を乗り越え、神社の裏を流れる小川にまで張り出していた。手を伸ばせば、川のこちら側からでもその枝に触れることができるくらいだ。 小さな小川の上を覆うように伸びているその枝には、見事なまでに真っ赤に色づいた紅葉。息を呑むような美しい姿を見せて、一面を赤く染め上げていた。 頭上より高いところに枝が張り出しているので、上を見上げるとまるで紅葉に囲まれているような錯覚を覚える。ちょうど一斉に色づき終えた葉っぱは本当に真っ赤で美しくて、もみじの錦というのはこういうのをいうのかと僕は思った。 川を覗きこむと、清流が流れるその銀色の水面には、真っ赤な紅葉がまるで鏡のようにきれいに映り込んでいる。 時々、ハラリと風に吹かれては落ちた紅葉の葉っぱが川にヒラヒラと舞い落ち、その度に水面にはきれいな丸い輪が描かれていた。 「赤く色づくのって、こんなにきれいなの」 「日本の秋は、紅葉がきれいなんだ」 「本当にそうね」 フランソワーズは感激したように、上を見上げたり、下の川を覗き込んだり、飽きもせずにずっとそうして紅葉を見ていた。 青空に映える紅葉もきれいね。 そう教えてくれたのもフランソワーズだ。 そんな風に見たことがなかった僕は、フランソワーズが教えてくれたように、場所を移して上を見上げる。 真っ青な青空に赤い葉っぱが映えて、本当にきれいだった。 「へえ・・・ほんとだ」 「ね。きれいでしょ」 僕が思わず感嘆するのを見て、ふふふとフランソワーズが嬉しそうに笑った。 フランソワーズはいつも、こんな風にいろんな発見をしては僕を驚かせてくれる。 散歩ついでにたまたま通りがかっただけの場所だったが、結局僕たちはそこに1時間くらいいて、その間、フランソワーズは熱心に紅葉に見入っていた。 少し寂しげな場所にあるせいだろうか。他の人の姿を見かけることもなかった。 この神社も、いつからあるのか、僕は知らない。 しかし、きっと、もうずっと昔からここに存在し、近くの家々の祭儀を執り行ってきたのだろうと思った。・・・今はもう、さびれてしまっているけれど。 そして、この紅葉の木も、ずっとここで通り過ぎる人々の様子を見守ってきたのだろう。 子供が生まれ、成長し、結婚し、そして死を迎えるのを。 僕たちが生まれる前から、この紅葉はここに存在し、秋になる度に色づき、葉を落としてきた。 僕たちがこの世にいなくなっても、変わらずこの木は秋になる度に色づき、そして葉を落とすのだろう。 何も、変わらずに。 僕にはそれが少し寂しかった。 フランソワーズはよほど紅葉が気に入ったのか、あれから、紅葉の名所が載っているいろんな雑誌を持ってきては、ここって遠いの? と僕に訊いてくる。そのたびに僕は「行ってみようか」と云い、時には、京都まで足をのばしたこともあった。 そうやって僕たちは、あれからたくさんの秋を過ごし、たくさんの紅葉を見たけれど、僕たちにとって最高の秋のひと時は、あの場所の紅葉だけだった。 一緒に見に行った年もあったし、二人とも行けない年もあった。僕ひとりで見た年もあった。 ――来年こそはあそこの紅葉、見れるかしら。 去年の初冬、チラチラと舞い落ちる雪を見ながら、残念そうにフランソワーズはそう云ってたっけ。 フランソワーズ、今年の秋は足早だよ。 あっという間に葉が落ちてしまいそうだけど、でも、そこここで見かける落葉樹は本当にきれいに色づいている。 あそこの紅葉も、きっと、今年は最高にきれいだと思う。 君が帰ってくる頃が、おそらく、一番見頃だよ。 ・・・札幌は、もうすっかり冬なの。 昨日電話で君はそう云っていた。 海外のバレエ団の来日公演について全国を回っているフランソワーズとは、もう1ヶ月近く会っていない。 明日帰るから。 空港まで迎えにいくよ。 ・・・ねえ、ジョー、あそこの紅葉が見たいわ。まだあるかしら? 僕は彼女に、あの場所に連れていくことを約束した。 でも。 肝心のフランソワーズは、よほど疲れていたのか、公演の話を一通りしてしまうと車の中で寝入ってしまった。 神社のそばに車を停めても、彼女が目を覚ます気配はない。 エンジン音が消えてなくなると、突然、辺りはシンとした静寂に包まれた。 聞こえてくるのは、風に揺れる木の葉のざわめき、ドングリが落ちる音、遠くで啼く鳥の声・・・ そして僕の耳元で繰り返される、フランソワーズの穏やかな呼吸の気配だけ。 開けた窓から入る、爽やかな風が気持ちよかった。 なんとなく、土の匂いがする。 僕自身、ここを訪れるのは3年ぶりだった。 去年も一昨年も、紅葉どころではなかったから。 懐かしさに思わず目を細めながら、車の中から周囲に目をやった。 以前と同じ、静かな、静かな場所だった。やっぱり人もいなくて。 全てを包み込むように降り注ぐ太陽の光。 崩れかけた土塀。 朱の剥げかけた鳥居。 さらさらと流れる小川。 例の場所にはここから少しだけ歩かなくてはいけなかったが、しかし、数年前と何ひとつ変わることのないこの場所の風景を見て、僕はなぜだか泣きたくなった。 あの紅葉の木も、変わらずに枝を拡げ、僕たちを待っていてくれるだろうか? 小川の清流には、今も赤い落ち葉がハラハラと舞い落ちているのだろうか? あの時は、何も変わらないことが寂しいと思ったけれど、 今は、この場所が変わらぬ姿で僕たちを出迎えてくれることが、静かな悦びとなって僕の心に染み込んでいく。 僕たちは傷つき、この手はどんどん血で染まり、もう去年と同じ僕たちではないのに、 この場所は何も云わず、何も変わらず、黙ってずっとここに存在している。 僕は、自分の肩にかかる彼女の体が落ちないよう注意しながら、首を動かし窓から空を見上げる。 ・・・こんな風に思えるのは、君がそばにいてくれるからだと僕は知っている。 僕ひとりだったら、とてもじゃないけどこんな風には思えない。そればかりか、もう、ここにすら来れないだろう・・・。 そうして見上げた空は、あの日と同じように、明るい、きれいな、雲ひとつない青空だった。 君が起きたら。 一緒に、あの紅葉の木を探しに行こう。 あの木は、あの場所で、変わらず僕たちを待っていてくれるだろうか。 君が大好きだと云った、あの見事な色づきを見せて。 銀色の水面を紅葉の錦で真っ赤に染めてしまうほどに。 その時、どこから風に吹かれてきたのか、真っ赤な紅葉が1枚、2枚と僕の視界を横切っていった。 軽やかに踊りながら舞い落ちる紅葉は、真っ青な空に映えて、かつて、フランソワーズが感激したような赤と青の美しいコントラストを作り出す。 ほら、君が起きないから迎えがきたよ。 君がきれいねとあんなに感嘆して云ったその言葉を、木も、清流も、土も、きっとみんな覚えているんだよ。 これから先、どれだけ多くの年月が過ぎ去っても、 フランソワーズ、あの木は君のことを、いつまでも優しく待っていてくれているはずだから。 だから、僕たちは寂しくない。 来年、また一緒に来よう。 たとえ来年ここに来れなくても・・・その次の年に来ればいい。 その年もだめなら、また次の年に。 あの木は、いつの時も変わらず、芽を出し、葉をつけ、そして秋には赤く葉を染めながらここで待っていてくれるはずだから。 僕は、安らかな寝息を立てる彼女の小さな手をそっと握りしめると、もたれあうようにして自分も目を閉じた。 落ち葉が地面に落ちる音までもが聞こえてきそうな、そんな静かな秋の日だった。 fin |
[2004.11.01] |