弟事情は複雑で

 アンドロマケに子が生まれた。それは取りも直さず兄さんに子が出来たということだ。めでたいことじゃないか。めでたいことのはずなんだけれど。

 

 国中が祝いの雰囲気で満たされている中、一人パリスの心境は複雑だ。無論、甥っ子の誕生を祝う気持ちがないわけではない。ただ、素直に喜ぶにはわだかまりがあった。なぜと問われても即答出来るほど明瞭なものではなくて、パリスの心を悩ませる。

 「アンドロマケ、入るよ」
 「どうぞ」

 母体の負担を考えて、入室の制限されているアンドロマケの部屋にも、義弟ということでパリスはすんなりと入れさせてもらえる。パリスはアンドロマケに声をかけたのにも関わらず、答えたのが甥っ子の乳母だったのが面白くなかったが、王家とはそういうところだ。仕方がないと諦める。

 「元気そうだね」
 「えぇ、昨日は心配かけたわね。やっぱり一人目に男の子というのは大変なものだわ」

 先日パリスが訪ねたときは、アンドロマケの体調が芳しくなく、ろくに話せないままに伏せてしまった。パリスは半ば乳母に追い出される形で部屋を出て行くことになってしまった。
 だが、今日はとても調子が良さそうだ。ふわりと笑うアンドロマケの頬には血の気がある。昨日とは違う。そして、ふっと見れば、その腕の中には生まれて少しの赤ん坊がいた。

 「兄さんに似て凛々しい顔してる。きっと立派な武将になるよ」

 まんざら世辞でもない言葉を口にする。利発そうな目元は母親似だろうか。しっかりと握っている拳を指で突付いてやったら、小さな手が力いっぱいパリスの指先を握る。何て力だろう。驚きの気持ちでパリスは赤ん坊の手を見つめた。

 「名前は決まったの? まだ?」
 「神官が納得しないみたいでまだなのよ」

 アンドロマケは赤ん坊の手を興味深そうに見続けるパリスの姿に目を細めて答えた。

 「兄さんみたいに、国の守護者になってくれる子だもの、きっと良い名が付くよ」
 「別に、国を守ってくれなくても良いのだけどね」

 義姉の言葉に驚いて、パリスは赤ん坊の手から視線を外した。息子を見るアンドロマケの表情は静かだった。いつもいつも、彼女は戦場へ赴くヘクトルを静かに見送る。パリスからすれば戦いの度に名をあげる兄は誇らしいのだが、アンドロマケは違うのだろうか。ぼんやり疑問を抱きつつ、もう一度赤ん坊に目をやる。会話の内容なんぞ知るよしもない赤ん坊は、母親に向けて嬉しげに手を伸ばしていた。もう片方の手はしっかりとパリスの指を握り締めたまま。

 「抱いてみる?」

 唐突にアンドロマケが言うた。パリスが拒否するより先に、乳母がえっと声をあげた。いかにも『とんでもない!』と言いたげな乳母の声にパリスは意地になった。赤ん坊なんて抱きたいと思ったこともないけれど、パリスはアンドロマケに抱き方を教えてと頼んだ。

 恐る恐る、といったていで赤ん坊を抱き上げるパリスに乳母は何か言いたげにしているが、アンドロマケが抛っておいている以上、パリスも気を遣う必要はないだろうと無視し続ける。

 「大事にね。女の子を抱くよりももっと優しくよ。その子はまだ首が据わってないから、そう、支えてあげるの」
 「何だかおっかないや」

 恐々赤ん坊を抱く姿は危なっかしい。後ろでそわそわしている乳母の気持ちも理解しながら、アンドロマケはパリスに子を託した。パリスの顔が強張っている。男としては頼りない、女にするには無骨な腕の中、赤ん坊が居心地悪そうに身じろぎする。赤ん坊が動くものだから余計にパリスは緊張してぎこちなくなる。堂々巡りの悪循環に陥っている義弟をアンドロマケは笑った。だが、パリスの方には義姉のからかいに応えていられる余裕はなく、必死の形相で赤ん坊を抱いていた。
 まるで子供が子守りをしているみたいだとアンドロマケは思った。否、子供だってもっとマシだろう。


 とにかくパリスは必死だった。扱い方の判らない生き物相手に奮闘していた。腕の中にいるのが兄の子であるのだと、考える余裕はなかった。それは却って良かったのかもしれない。ヘクトルの子であると思ったら、良くない考えを起こしていただろうから。パリスの敵意に赤ん坊は泣き出してしまっていただろうから。

 「全く。子供が子供を扱うにしても、もう少しマシだろうよ」

 上から声がしたと思ったら、パリスの腕の中が不意に軽くなった。赤ん坊は、パリスの物よりももっとずっと逞しい腕の中に収まっていた。赤ん坊の顔がほころぶ。

 「ヘクトル!」

 アンドロマケが立ち上がろうとするのを、ヘクトルは目で制止した。とてもとても優しい眼差しを、息子に向ける。パリスの知る限りで、一番優しい笑み。パリスが今まで見たこともないくらい優しい笑みをヘクトルは息子に向ける。

 「まぁ、パリス、何て顔をしているの」

 アンドロマケの声にパリスはどこかに飛びかけていた意識を戻す。アンドロマケは苦笑していた。

 「赤ん坊を取られたことが寂しいの、赤ん坊にヘクトルを取られたことが寂しいの?」
 「からかうな、」
 「寂しい? 寂しいだって? 僕が? そんなこと、そんなわけが!」

 ヘクトルの制止を遮ってパリスは叫んだ。けれど、『寂しくない』とはっきりと否定することが出来ず、乳母を睨んだ。突然睨まれた乳母はそりゃ驚く。ひっと喉の奥で声になりきらなかったものが響く。パリスは、部屋から走って逃げた。乳母は訳が判らず救いを求めるようにヘクトルを見やった。そこにあったのは苦笑だけだったが、それでも乳母の心はいくらか安らいだ。

 「アンドロマケ、あまりあの子をからかうな」
 「からかってなんか。パリスはいつかこの子からあなたを奪ってしまいそう」
 「ばかなことを」

 ヘクトルは赤ん坊を母親の腕の中に返し、なだめるように優しくアンドロマケの頭を撫でてやった。


 パリスは浜辺まで来ていた。この都でパリスが一番気に入っているのは、海までが近いところだ。さすがに、馬を使わなければそれなりの時間はかかってしまうのだが。

 海の音を聞きながら、パリスは座り込む。今更ながら、乳母に悪いことをしたと思った。全くの八つ当たりで睨んでしまった。だけどまぁ、良いか。するっと開き直る。過ぎたことは仕方がない。それに、本当に許し難い行為であったら、後からヘクトルからお咎めがあるだろう。それまでは特に思い悔やむこともあるまい。何とも暢気に兄に甘えている。だが、パリス自身にその自覚はない。
 彼にとって、ヘクトルに甘えるという行為は呼吸をするのと同じくらい自然で当たり前のことなのだ。

 「自分の子供って、そんなに可愛いものなのかなぁ」

 広く遠い水平線を眺めながらパリスはひとりごちる。息子に向けた、ヘクトルの表情を思い出す。パリスは自分が兄から好かれている自覚はあるが、あんな風な笑みを向けられたことがない。それがひどくショックだった。

 「あーあ。妻に子供。どんどん兄さんが遠くなる」

 ごろんと浜辺に大の字に寝転ぶ。パリスは結局寂しかっただけなのだ。手放しで自分を甘やかしてくれる兄が、年追う毎に自分だけのものではなくなっていく。段々と、ヘクトルを占有出来る時間が短くなっていく。

 「僕も結婚しようかなぁ〜」

 暢気なパリスの声が、波の音に消えていった。

 

 ま、とりあえず、今度兄さんと顔をあわせたら、ちゃんと笑ってお祝いの言葉をあげよう。 


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ただのブラコン話になりました。
これで良いと思います、この子は。
乳母が予定外でした。なぜ登場させたのだろう。
もうちょっと深刻な妻vs弟が展開される予定でした。
乳母がね、弟の敵意を散らしちゃったわね。
そろそろお兄ちゃんメインの話が書きたいわね。

write 160610 tama



田間さんからの贈り物、第一弾。田間さんの書かれるマケ姐さん、好きなんです♪
なんだかんだ言って、パリスとマケ姐さんの関係もいい感じです(笑)
(れこ)