目指せ僕の家


 ヘレネ奪回を口実に始まったトロイア戦争は、あっけなく終結した。じゃんけんにより着けられた一本勝負の決着が、『あいこ』であったためか、双方角が立つことなく、両軍の兵士は握手を交わし、それぞれの帰るべき場所へ帰った。
 そこまで考えての作戦だったというのなら、全くもって侮れない男である。アキレウスは、トロイアへ向かう船の中で隣に座り、デレデレと愛妻や愛息の自慢話を飽きることなく続けるオデュッセウスを見やった。
 トロイア・ギリシア間の国交は実に正常であり友好的でもあり、アキレウスの知らぬところでヘクトルと意気投合したオデュッセウスはこうして、時折そう近くはないトロイアへと船を走らせている。アキレウスも可能な限りオデュッセウスに同行していた。
 正直な話、アキレウスはオデュッセウスと行動を共にするのは好きではない。何せ奇抜だ。どこで何をするのか判らないのがオデュッセウスである。これに心棒する方がどうかしている。つい最近、トロイアの若王子に妻を取られ意気消沈している男を思い浮かべる。
 パリス・ヘレネ・メネラオスによる三者懇談は結局、ヘレネはトロイアに残るということでナシがついた。メネラオスは初めかなりグズっていたらしいが、ヘレネがそれを望むならと、潔く身を引いたらしい。

 「それでな、埒があかぬので、ヘクトルをイタケへ招こうと思っているんだ」
 「何だって?」

 アキレウスが耳にタコが出来た上に更にまたタコが出来ているような智将の家族自慢を大人しく聞いているのには、しっかりと訳があった。そう、ヘクトルだ。アポロン神殿で顔を見合わせてからこの方、アキレウスの頭の中からヘクトルがいなくなったことがない。自分でもイカレてると思うほど、トロイアの総大将に惹かれている。
 だが、アキレウス一人ではトロイアへ赴く口実が作れないのだ。ヘクトルと親交のあるオデュッセウスの共としてならば、以前よりオデュッセウスと親しい仲にあるアキレウスがトロイアへ行くのも自然に見える。少なくともアキレウス自身はそう思っている。

 「ん? だからな、ヘクトルに何度ペネロペやテレマコスの素晴らしさを説明しても理解しないんだ。あれの目には自分の妻や息子しか入っていないらしい。なるほどアンドロマケは確かに敏く素敵な女性だ。だが、上には上がいるのだとヘクトルは知らなければならない。アキレウスもそう思うだろう?
 百聞は一見にしかずだ、イタケに招いて、実際に会ってもらおうと思ってな」

 お互い様だろうという言葉はあえて飲み込んだ。オデュッセウスはこれほど良い案はないと得意げになっている。わざわざ水を差すことはないだろう。アキレウスからすれば、実際にヘクトル自慢の妻や息子に何度会っていても自分の妻や息子が一番だと言い、信じているオデュッセウスを見る限り、ペネロペやテレマコスに会ったところでヘクトルの考えが変わるとは到底思えないのだが。この二人は変なところで妙に似ているから。
 ともかくも、今はいらぬところでオデュッセウスの機嫌を悪くするのは得策ではない(尤も、易々と機嫌を損ねるような人物ではないのだが)。ヘクトルはトロイア守護の要であり、ギリシアとの戦は皆無になったとはいえ、他との小競り合いは未だ続くため、トロイアから離れることは滅多にない。これはチャンスだ。妻や弟、彼を溺愛する親のいないところへ連れ出せれば……獅子は、笑った。

 一方、オデュッセウスも獅子には見えぬよう、こっそりと笑った。自分一人ではなかなかヘクトルをトロイアの外へ出すことは出来ないが、アキレウスを引っ張り込めば何とかなる。どうやらトロイアの総大将殿にご執心らしいアキレウスのことだ、どんな強引な手を使ってでも自領地にヘクトルを招こうとするだろう。そうなればイタケへ招くことは簡単だ。
 ペネロペやテレマコスに会って感嘆するヘクトルを思い浮かべ、オデュッセウスはもう一度笑った。


 「ねぇ兄さん、また来るの?」
 「失礼な物言いをするな、パリス。オデュッセウスは素晴らしい人物だろう? 些か、ご自身の妻や息子に盲目ではあるが」
 「兄さんがそれを言うかなぁ。僕だってさ、おじさんだけなら文句はないんだよ。ただね、余計なのがしょっちゅうくっついてくるから」

 アキレウスが敢えて飲み込んだ言葉を、パリスはさらりと兄に向かって言う。ヘクトルも自覚があるのかないのか、言われている意味に気付いているのかいないのか、『おじさんじゃないだろう』と、パリスが勝手にオデュッセウスに付けたあだ名についての注意しかしない。
 『余計なの』にも興味がないらしく、『スカマンドリオスに歯が生えたことを話そうと思っているんだ』と、息子の話を嬉しげにしている。アキレウスには可哀想だが、パリスにしてみればザマーミロである。自分の愛する兄に、下心をもって近付く自称・他称共に『獅子』であるアキレウスの存在が、パリスには面白くない。

 (何が獅子だろう、兄さんの前では犬でしかないくせに)

 誰かがこのパリスの心の声を聞いたらならば、お前こそと突っ込んでくれただろうが、残念ながらそんな能力持ち合わせた人間は、少なくともこの場にはいなかった。


 「オデュッセウス、久しぶりね! ペネロペは元気?」
 「勿論! 何事もないよ。彼女に何かあったら私はここにはいない」
 「ヘレネ、あなたの従姉妹はずいぶんと愛されているようね」

 ヘレネとペネロペは従姉妹であるとはいえ、あまり接点はない。だが、それでも親戚である以上はペネロペのことが気にかかるらしく、ヘレネはオデュッセウスがやって来る度にペネロペの調子を尋ねる。アンドロマケは、オデュッセウスの相変わらずの愛妻振りをからかうが、オデュッセウスは至極真面目な顔をして、『それこそ勿論だとも、彼女を愛せずにいられる男は甲斐性なしだ』などと返す。
 女性陣に囲まれて、華やかな空間が出来ているオデュッセウスの隣で、アキレウスは珍しく小さくなっていた。ブリセイスの話を持ち出されると非常に気まずいからだ。何とか、彼女の話だけは出ないでくれと願うのだが、憎たらしいパリスは的確にアキレウスの触れて欲しくない話題に触れてくる。無論、狙ってのことだ。

 「ねぇ、アキレウス、ブリセイスはどうしてる? 僕らの愛しい従妹を連れて帰っておいて、つれなくはしていないだろうね」
 「彼女は、幸せにしている」
 「へぇ、誰が彼女を幸せにしてくれているのだろう」
 「アキレウスに決まっているだろう、何を言うんだパリス」

 話を振ってくるのはパリスだが、毎度毎度、最終打を撃ってくれるのはヘクトルだ。パリスであったならば、アキレウスも大きく出られるのだが。
 アキレウスは引き攣った笑みを浮かべ(愛想笑いなんぞ絶対にしない男が!)、曖昧に言葉を濁らせる。本当のことなんて言えやしない。ブリセイスは望んでアキレウスと共にトロイアを離れたのだが、その後、彼女と懇ろにしているのは、アキレウスの従士であるパトロクロスであり、アキレウスではなかった。
 だが、ヘクトルは、アキレウスとブリセイスとが互いに愛し合っているのだと信じて疑っていない。信頼を裏切るようなことも出来ず、アキレウスはひたすら誤魔化し続けている。パリスとヘレネにはしっかりバレているが。

 縮こまっているアキレウスを、他には判らぬようオデュッセウスがつねった。ヘクトルに対する後ろめたさを一気に怒りに換えて、アキレウスは音がしそうなほど激しくオデュッセウスを睨みつけた。ヘクトルが、不審な顔をする。ついつい、と、アキレウスの服を引っ張って、オデュッセウスが呆れ口調で耳打ちする。

 「全く、お前の脳みそはどこへ置いていかれたんだ? これを利用しない手はないだろう。お前、ヘクトルを自領に招きたいのだろう?」

 じっと、オデュッセウスの言わんとすることを考え、アキレウスはぱっと表情を明るくした。いつもの通り、堂々とした獅子に戻る。今やパリスに感謝したい気分だった。

 「ヘクトル、それで、どうだろう、そろそろブリセイスに会ってみたいとは思わないか? 俺は何度もここへ来るときに誘ってはいるのだが、里心がつきそうだからとなかなか同行しようとはしないんだ。だが、ブリセイス自身もヘクトルたちのことが気になっている様子で」
 「ついでにイタケに寄って行かないかね? 小さくて貧しいところではあるが、素晴らしい土地だよ」

 上手い誘い文句の一つも浮かばない獅子の言葉を遮って、オデュッセウスが畳み掛けてヘクトルを誘う。何せアキレウスは普段、人の下手に出て誘うということをしない。誘い方がよく判っていないのだ。
 だが、アキレウスの存在は今回実に有効に活用出来た。彼がいなければブリセイスの話題は出ず、これといって決め手になるような誘い方も浮かばなかっただろう。思案顔のヘクトルを見ながら、これは落ちるぞと、オデュッセウスは満足していた。

 「そうだな、ブリセイスがどういう生活をしているのかとても気になる。それに」

 ちらりと、ヘクトルは言いながらアンドロマケの顔を見やった。アンドロマケがぱっと頬を明るくさせる。

 「私も連れて行ってくれるの?」
 「あぁ、ペネロペに会いたいと言っていただろう? オデュッセウスからの折角のお誘いだし、断る理由もないと思うんだ。だったら、君も一緒にイタケに行って、彼の自慢の妻に会いたいだろ」

 オデュッセウスは考えを改めた。アキレウスはさほど役には立たなかった。ストレートにイタケに誘うだけで充分だったのだから。

 「うん、それは良い。ペネロペもアンドロマケに会いたがっていたから。息子も連れて来たら良い」

 にっこりと、アカイアの誇る智将は微笑んだ。

 

 かくして、トロイア夫婦のギリシア旅行が実現することとなった。 

 

 

だから長いっつの。
えーと、どういうわけか続き物になっちゃいました。
そういうこともあらぁな。うん。
次回は、おいてけぼりパリスと、奮闘アキ子がメインとか。
信じちゃいけない次回予告です。
最後に、私、それなりにアキ子好きですよ?(笑)

write 160702 tama


 


ヘクトルの天然っぷりが最高です♪アキ、オデ、パリスと各人の思惑が交錯して、
わくわくしますね〜!(れこ)