フネノナカバタ


  「納得がいかない!」

 トロイアはイリオスにある都城にて、若王子の叫びが虚しく響いた。傍で聞いているのは妻のヘレネのみ。他はギリシア旅行に出かけてしまったヘクトルを思って意気消沈していた。ヘレネは思う、トロイアを落としたければヘクトルを誘拐してしまえば良い。きっと成功する。
 それはともかくとして、嘆く夫を形だけでも慰めてやろうと声をかける。こういう、子供じみたところもひっくるめて愛しているのだから仕方がない。夫がヘクトルのような人間だったら苦労はしないだろうが、日々の楽しみはないだろうなと、人知れず愛夫家な思考を垣間見せる。

 「まぁ、落ち着いたらどう? 一度はパリスも納得したじゃないの」
 「そうだけど!」

 でも納得いかないとパリスはごちる。

 時を遡って二日前。一週間の滞在を終え、オデュッセウスが故国イタケへと戻ることになった。同時にそれは、兄夫婦の旅立ちも意味していた。夫婦揃って、更に息子も一緒に出掛けるとあって、ヘクトルもアンドロマケも常には見せない興奮ぶりだった。ともかくも、今回の旅を楽しみにしていたのだ、二人とも。
 それは良いことだ。パリスとしても嬉しい。納得いかないのは、兄夫婦一行にアキレウスも同行するという点と、自分は置いてけぼりという点だ。そもそも旅のメインイベントはブリセイスに会いに行くことであり、イタケ旅行はおまけである。だからこそ父王その他国の重役どもからヘクトルは出国の許可をもぎ取れたのだ。ということは、アキレウスがヘクトル達と行動を共にすることは何ら不自然なことではない。
 だが、だがだがだが!

 「あの犬が兄さんと一緒に行けて、僕が行けないのは納得がいかない!」

 ギリシアきっての兵士を犬呼ばわりするのはトロイアではこの男くらいだろう。無謀というよりは無邪気と称した方がしっくりくる夫を見やる。

 「そのお兄さんに残れと言われて納得したんじゃないの。いい加減に諦めなさいよ、どうせ今ごろギリシアに着いてるわ。追いかけて行くにしては出遅れすぎたわね」
 「ヘレネ、だって、兄さんに『私の代わりを立派に務めてくれるね』なんて、あの真っ黒な瞳に見つめられながら言われたら! ねぇ君、断りきれるの? 無茶だよそんなの、僕には出来ない!」

 勿論パリスは黙ってはいなかった。兄に随行すると駄々をこねにこねまくった。オデュッセウスは楽しんで眺めていたが、アキレウスは本気で煩がっていた。ヘレネは当然パリスはついて行くしまた、ヘクトルもパリスが行きたいと言えば連れて行くだろうと思っていた。だが、意外にも、パリスの前に立ちはだかった壁は、彼が最も愛し最も信頼する兄・ヘクトルだった。

 『パリス、お前だってプリアモス王の一子なんだ、いつまでも子供のようでは困る。良いかい? お前には私の代わりにトロイアの守護を務める責があるのだよ』

 優しく諭す兄を遮って、往生際悪く言い募ろうとしたパリスに、先ほどパリスの言った言葉が降って来た。『私の代わりを立派に務めてくれるね』、兄に守られる存在から兄と並び立つ存在へ。ただ甘えるばかりのパリスから見ても、とても魅惑的な誘いだった。だから、一度は納得したのだ、兄を見送って自分が国を守ると。

 「でも、ねぇ、やっぱり僕は断るべきだったんだよ。断固兄さんに反対して一緒に行くべきだったんだ! あの犬から僕が兄さんを守らなければならなかったのに! あぁ、軟弱な僕! 兄さんを傷付けたくないばかりに余計に危険な状況にしてしまうなんて!」
 「パリスったら落ち着いてよ、もう。よく考えて? オデュッセウスも一緒なのよ?」

 ヘクトルの瞳の色までじっくりと見たことはないが、ヘレネはパリスの潤んだような目に弱い。きっと同じ原理なのだろうと、パリスが兄の申し出を断れなかったことは納得しながら、一方では呆れ果てていた。
 ヘレネもアキレウスの下心には薄々気付いてはいる。初めはパリスの被害(?)妄想に過ぎないと思ってはいたが。

 「アンドロマケもいてスカマンドリオスもいて、ヘクトルの気持ちは常に二人にあるのだし」
 「だからこそ、その隙を狙われることだってあるだろう!」
 「パリス、私が思うにアンドロマケはみすみす他の男に最愛の夫をくれてやるような間抜けではないわ」

 何よりもアキレウスがヘクトルに対して強気に出られるとは思っていない。強引にでもどうこうしようという気があるのなら、何度もオデュッセウスと共にトロイアに足を運んでいるのだ、とっくにどうにかしていただろう、機会は充分にあった。
 もう一つ、ヘクトルがパリスの心配するようなことにはならないだろうとする根拠がある、オデュッセウスだ。ヘレネは何度か会う内に気付いたのだ、オデュッセウスはアキレウスを怒らせたりやきもきさせたりするのを至高の楽しみとしている。アキレウスが強気に出ようとしてもオデュッセウスが全力で楽しみのために邪魔するだろう。
 だが、そんな話をパリスにしたところで埒があかない。なぜなら彼はヘクトル以外の人間には恐ろしく関心を持たないからだ。アキレウスやオデュッセウスの行動なんぞに気を配ったことはあるまい。ならば、アキレウスやオデュッセウスよりももっと、パリスに身近でしかも強力な存在を持ち出した方が早い。

 「そうか、アンドロマケ……」

 ようやくにして落ち着きを取り戻した夫に溜息ひとつこぼして、ヘレネは義兄夫婦に思いを馳せた。今ごろどこでどうしているだろう。愚弟のことなんぞ忘れて楽しんでいてくれれば良いのだけれど。

 

 大丈夫、しっかり忘れて楽しんでいた。未だギリシアに着けぬ原因となっている、船内で起こっている論争にも無関心で楽しんでいた。航路が定まらず、長々と海の上にいることは、普段だったら腹立たしいことではあるが、今はとかく楽しい。何であろうと楽しい。

 「スカマンドリオス、お前は船から見る海は初めてだろう? こんなにも素晴らしいのだよ、海は」

 アンドロマケに抱かれた息子にヘクトルが話し掛ける。潮風に長時間晒すのは良くないと、後ろでごちゃごちゃ言う乳母を無視して夫婦は親子で初めて見る船からの海を楽しんでいた。一方、船内ではアキレウスとオデュッセウスの論争が続いている。

 「どう考えたってイタケへ先に寄るのは遠回りだし要領が良くない」
 「ほう、アキレウスの口から要領などという言葉が聞けるとはね」
 「オデュッセウス! 俺をバカにするな。確かに頭の回りではあんたには敵わないがな、」
 「しかしアキレウス? ブリセイスのことはどうするつもりなんだ? 実際に会えばもう、誤魔化しは効かないだろう」

 アキレウスを遮って、ニヤリと人の悪い笑みを向け言うオデュッセウスの言葉は、アキレウスを黙らせるのには充分だった。イタケにはオデュッセウスの最愛の妻であり尚且つ最強の共謀者であるペネロペがいる。アキレウスから見れば天敵のような存在。オデュッセウスがアキレウスのヘクトルの想いを邪魔立てしようと考えていることを知れば、彼女はあらゆる手段を使ってアキレウスの妨害に出るだろうことは容易に想像出来た。
 けれども、そう、自領に行ったならば行ったで問題を抱えている。ブリセイス。いつまで誤魔化しが効くものなのか。いつかはバレるものとはいえ。がらりとアキレウスは態度を変えた。

 「頼む、そのことなんだが知恵を貸してくれ」
 「ならばまずイタケを目指す」
 「それでは困る」
 「お前に知恵をやったところで見返りがないじゃないか」
 「先にイタケに立ち寄ったら、そこで時間を食い潰すことになるじゃないか。お前の目的はそれだろう? ヘクトルがトロイアを離れていられる時間は限られている。その時間めいいっぱいをイタケで過ごさせようというつもりなんだろう!」
 「ご名答。すごいな、お前をディオメデスの次に賢い男として認めてやるよ」

 悪びれた様子も見せず、オデュッセウスはけらけらと笑う。イタケにいる間はアキレウスに望みはない。がっくりとうな垂れる。そのとき、日が差してヘクトルが現れた。アキレウスは先ほどの(つまりはブリセイスの)話を聞かれたのかと強張る。だが、杞憂だった。

 「オデュッセウス、航路が決められなくて舵取りが困っているよ。どうなったんだい? 結局イタケが先なのか?」
 「あぁ、イタケが先だ。エルペノル、そう伝えてくれ」

 ヘクトルを案内してやって来ていた己の部下にオデュッセウスは決定ではない決定事項を伝えさせる。この時点で決定ではなかったことが決定になった。アキレウスは再度うな垂れる。行き先がイタケになったことと、ヘクトルにもどうやら二人の力関係はオデュッセウスの方が上だと認識されているらしい事実を知ったこととで。
 『結局イタケが先なのか』、それはつまり、アキレウスの意見よりもオデュッセウスの意見の方が通りやすいという認識なのだろう。この船はオデュッセウスの物なのだから、当然の判断なのだが、今のアキレウスはそこまで考えが至らない。

 「どうしたアキレウス? 気分でも悪いのか?」

 ふっと顔を上げるとヘクトルのドアップがあった。失望でがっくりしているアキレウスの姿が、ヘクトルには体調を崩しているように見えたらしい。心配そうにアキレウスの横に腰を下ろした。なんでもないと顔をそらして小声で答えるアキレウスに、ヘクトルの心配は一層増した。アキレウスといえば、ただ単にあまり見られないヘクトルのアップに照れてそっぽを向いたに過ぎないのだが。
 ぐいっと引き寄せられた。慌てるアキレウスをよそにヘクトルは己の額をアキレウスのそれにこつりと当てた。熱はないな、呟いた後、アキレウスの頭を自分の胸に抱く。
 天にも昇りそうだ。アキレウスの脳裏には隣で悔しそうにしているオデュッセウスの顔が浮かんだ。

 「パリスが体調を崩した時はいつもこうしてやるんだ。そうすると不思議と治りが早い。あんたも、良くなるまで大人しくしていれば良い」

 パリスのものとは質の違うアキレウスの髪をすいてやりながらヘクトルが言った。アキレウスは頷いて、自らヘクトルの胸に顔を押し付ける。見ちゃいられないとオデュッセウスのぼやきが聞こえた。アキレウスはご満悦だ。
 やーいザマーミロ、くそ弟! ヘクトルは今、俺だけのものだぞ! さり気なくヘクトルにパリス同様の扱いを受けているのだと、幸いなことに気付いていないアキレウスは幸せいっぱいだった。

 船は揺れる、波に揺れる。イタケへ向かってえんやこら。幸せな男を積んでえんやこら。


 「アキレウス、束の間の幸せをとくと噛み締めておくが良いさ」

 オデュッセウスの呟きは聞かなかったことにして。 

 

 

小さく報われるアキ子の話だったらしいよ。←え
良い目見てるはずなのに
全然羨ましくないのは何故だろう。
えーっと、次回のお話は?(誤魔化せイエイ!)
ディオ様登場! お楽しみに♪
ちなみにタイトルは『船の中のドタバタ』を
ドッキングしてカタカナにしたものです。
えぇ、最初は船の方がメインだったんです。

write 160706 tama


私はヘレネの肝っ玉ぶりに感動しました!!田間さんのお話は、女性がつよいんですね〜。
そして、パリス、アキレウスと、手のかかる子供が二人!先が思いやられますね。
れこ)