ともに思う幸せ


 イタケの地に着いた一行を出迎えてくれたのは、よく通る、豪胆な声だった。名前を呼ばれ、声のした方に向けられたオデュッセウスの顔が、一瞬にしてぱっと華やいだ。こういう表情をする人だったのかと、ヘクトルは興味深く、オデュッセウスの顔を見つめた。
 遠慮がちに、けれどもちゃっかりヘクトルのすぐ近くに立っていたアキレウスからは、呆れと取れる溜息が零れる。

 「来ていたのか!」

 あれだけは慣れない、と、アキレウスがヘクトルに聞こえるか聞こえないかのところで呟いたのとどちらが早かっただろう、オデュッセウスが己の名を呼んだ声の主に声をかけた。声の主が手を振ると、オデュッセウスは部下達を先に館へ使わして、己は自分を出迎える声の主の元へと走り寄った。
 ヘクトルも、息子を抱く乳母を除いた付き人全員を、オデュッセウスの部下達に同行させた。何となくそうすべきだと思った。ヘクトルは、オデュッセウスを呼んだ男の顔を知っていた。
 わずかに身を硬くさせたヘクトルにアキレウスは気付く。あぁ、そうか。

 「ディオメデス、主のいないときに来るだなんて意地の悪い。私に客としてもてなさせないつもりだったのか?」
 「まさか! あんたに恥をかかせるつもりはないさ。ただちょっと、帰って来るだろう時期を見誤ったんだ」

 しっかりと抱擁を交わしオデュッセウスが声の主であるディオメデスと気さくに言葉を交わす。傍から見れば微笑ましい情景だ、久方ぶりの再会に喜び合う友二人。だが、名を聞いた途端、アンドロマケまで緊張した空気をまとう。母親の緊張を受けて、乳母の腕の中にいる赤ん坊がむずかった。
 この女は武将の名前まで逐一知っているのかと、アキレウスは呆れた。
 ディオメデスは、アキレウスと張れるほど強い武将だ。途中で呆気なく幕を下ろされたトロイア戦争でもかなりの数を殺していし、それ以前の戦でもトロイア兵の身をすくませるだけの働きをしている。だからアキレウスは、戦場に立つヘクトルが思わずディオメデスに警戒心を持ってしまうのはいかんともし難いことだと理解した。
 が、アンドロマケまでヘクトルと同じ反応をするとは。アキレウスは呆れると同時に驚く。さすがに、実際に戦場に降り立つことのない彼女は、ディオメデスの名こそ知れ、顔までは知らなかったようだが。

 ディオメデスとオデュッセウスは未だ親しげに会話を続けている。二人から醸し出される何とも言えない甘ったるさが、アキレウスは苦手だ。幼い頃からそうだが、年を経るに従って、苦手意識は募って行く。
 気を紛らわすため、ヘクトルへ声をかける。このままぼんやりと、おっさん二人組の会話を眺めているのバカらしい。

 「そう、身を硬くするな。もう奴と戦うことはない」
 「あ、あぁ、そうだな。すまない。どうも抜けきらないんだ、癖が」

 苦笑を浮かべ、ヘクトルが答える。仕方がない、ヘクトルは国の守護者としての責務を果たすため、いつでも戦場に立っていたのだから。アキレウスは一つ頷いて、大分離れたところにオデュッセウスと立っているディオメデスに目をやった。
 尚も抱擁を解く気のないらしいディオメデスの腕はオデュッセウスの肩に、オデュッセウスの腕はディオメデスの腰にある。身長差があるため、オデュッセウスの腕はディオメデスの肩へかけられたことはない。ディオメデスは目立って背の高い男だった。

 「ふぅん、俺に対してはさほど警戒していないのに?」

 からかうように窺うようにアキレウスは言葉を紡ぐ。

 「そうだったか? いや、最初の内はやはり緊張していた。戦場でしかあんたを知らなかったからな」

 己の緊張をほぐすためだろうか、妻の緊張をほぐしてやるためだろうか、ヘクトルがぽんぽんと優しくアンドロマケの肩に触れる。アンドロマケが僅かに破顔し、むずかっていた赤ん坊の頬を撫でてやった。すると、それまで乳母がどんなに宥めても駄目だった赤ん坊が、すっと上機嫌な笑い声を上げる。
 母親とは不思議なものだと、奇遇にも、ヘクトルとアキレウスは同時に同じ事を思った。

 「だが、オデュッセウスと話すあんたはまるで子供のようだったから」
 「子供だとっ!?」
 「あぁ、そうだとも。あんたはオデュッセウスのことを信頼しているんだな。オデュッセウスもアキレウスのことを可愛がっているようだし」

 ヘクトルの言葉にアキレウスは鳥肌を立てる。

 「よしてくれ、そんなことを言うのは! あいつは国の安泰の次に俺の不幸を望んでいる奴なんだぞ?」

 からからと、アンドロマケが笑う。この女は男達が会話を始めると一切口を挟まなくなる。故に、アキレウスはアンドロマケのことを、ヘクトルとは切り離したところでもそれなりに気に入っていたし(ただし、アキレウスが女に口を挟まれるのを嫌っていると知っていての行動なのだとしたら末恐ろしい)、ヘクトルの妻である、という点も加味して、他の女たちとは一線を画してアンドロマケという存在を認識していた。
 だから、アンドロマケに突然笑われて、アキレウスは怒りよりもまず先に羞恥を感じた。何がおかしいと恫喝することも出来ず、むっつりと黙り込む。

 「アキレウス、あんたはよっぽどオデュッセウスと仲が良いんだな」

 アンドロマケの代わりにヘクトルが、アキレウスが問いただしたくも出来なかった質問に答えてやる。アキレウスは更に不機嫌な顔になる。

 「あいつが仲良くしているのはディオメデスだけさ。他は家畜以下だ、そういう奴だ。あぁ、自分の家族とヘクトル、あんた達親子も別格らしいが」
 「何だ、拗ねているのか?」
 「からかうのはやめてくれ、ヘクトル。戦のないところでも俺を敵に回すつもりか」
 「まさか、あんたとは上手くやっていけると思っている」

 不意に向けられた笑顔と言葉に、アキレウスは照れくさくなってそっぽを向く。それがまた、夫婦のツボを得たようで、今度は二人揃って笑い出す。どうにも居心地が悪くなってもう一度、戦友達の方を向いた。ヘクトルもアキレウスにつられてかつての敵将を見やった。
 思うと、不思議な感覚だ。隣に立って暢気に言葉を交わしているアキレウスだって、ちょっと前までは敵だったのだ。どうやったら倒せるか、物騒な思案をしたのは一度や二度の話じゃない。
 やめよう、ふるふると頭を振ってヘクトルは思考を切り替える。未だ抱擁のまま話しこんでいる二人を改めて見た。

 「少し驚いたな、オデュッセウスはあんな風に簡単に人を懐へ入らせる人だとは思っていなかった。認識をかえるべきだろうか」
 「いや、ヘクトル、あんたの判断は間違っちゃいない。ディオメデスが特殊なんだ。あいつは義理堅くて信用が置ける。だからオデュッセウスは気に入っているんだ。平気で人を騙すくせして人に騙されるのは嫌いだからな。それで絶対に自分を騙さない人間だけを気に入る。勝ってな奴さ」

 腕を組んでむすっと言うアキレウスの心情を探るようにヘクトルはアキレウスの顔をじっと見つめる。きれいな目だな、アキレウスは頭の隅で思う。

 「バカ正直なだけで無能な奴も駄目だな。あいつは有能な人間じゃなけりゃ愛せないんだ。だからペネロペを選んだ、ヘレネでなくな」

 ニヤリ、アキレウスがあまり良い種類ではない笑みをその口元に形作る。ヘレネがメネラオスへ嫁す時、面倒事があったらしいということくらいは、曖昧な噂ていどではあるが、ヘクトルも知っていた。

 「あんたの弟は上手いことやったもんだな。あっというまにヘレネを自分のものにしてしまった」
 「当人達が決めたことだ、私達が今更とやかく言うことではないよ」

 弟のことをからかわれ、ちょっと機嫌を悪くしてヘクトルはアキレウスに対応する。ふぅんとつまらなそうにアキレウスは唸ったきり、黙り込んだ。気付けば赤ん坊は乳母の腕から母親の腕へと移っていた。
 と、その時、オデュッセウスの部下やヘクトル達の付き人が向かった方角から、女性が一人、子供を連れて現れた。ペネロペだ、アキレウスが言うが早いか、オデュッセウスはディオメデスの腕から離れていた。

 「ペネロペ! テレマコス!」

 ディオメデスのときよりも数段機嫌の良い声で妻や息子の名を呼ぶ。あっという間にオデュッセウスの記憶からディオメデスとの再会は掻き消されてしまったかのよう。ディオメデスが突然寂しくなった手を一人虚しくわきわきさせていた。怒りたいような呆れたいような笑いたいような。
 こういうとき、以前のアキレウスなら思い切りディオメデスのことを笑い飛ばしていた。が、ヘクトルと出会ってこの方、何だか身につまされるような想いである。あまり他人事とは思えなくなってきていた。
 さり気なく近付き、慰めるように肩を叩いた。ディオメデスが子を抱いたアンドロマケと並んで立つヘクトルを見やって、アキレウスにふっと同志の笑みを向けた。

 「子供だ子供だと思っていたが、お前も一端(いっぱし)に成長していたんだな」

 アキレウスは殴り飛ばしたい衝動を必死に抑え、辛い恋路の先輩であるディオメデスに愛想笑いを向けた。

 「「愛妻家なんてクソったれだ」」

 意図せず同じ言葉を吐き出したディオメデスとアキレウスは顔をあわせ、何とも複雑な心境に陥った。
 一方、ことの次第なんて知る由もないトロイアからやって来た夫婦は、親しげにイタケの親子と挨拶を交わす。ディオメデスとアキレウスを悩ます一団が、春の花畑のような風情を見せている。

 

 妻を愛するのも息子を愛するのも国を愛するのも勝手だ、いくらでも愛せば良い。ただし、それ以上の愛情をこちらにも向けさせてやる。やはり二人は同時に同じ宣戦布告を意気地なく心の中でしたのであった。

 がんばれ戦場で猛る獣たち。相手は一筋縄ではいかないぞ! 

 

 

え〜、特にストーリィはありません。
だって、続けるつもりがあったわけではないんだもの。
なりゆきで続き物になっただけなので、
なりゆきで今後の展開も決まっていきます。
前回よりアキ子、格段に報われていますね!(ほろり)
さて、愛妻家に振り回される哀れな男一人追加です。
本当にどうなるやら。
ちょっと今回、戦の終わった喜びを感じさせてみました。
平和噛み締めアホ話へ突入!

write 160709 tama


愛妻家万歳(笑)♪・・・そして片思い二人組、がんばれ〜!
かつての敵同士が、こういう平和な場面で再会する、ってシチュエーション、なんだかいい感じです。
そういうときは、アキも偉大なる戦士の面を見せてますね。
たまにこういうシーンがないと、アキが戦士だってこと、忘れちゃいそうです(笑) (れこ)