瞬く星に訊いてみろ!

 アキレウスは地獄を見ていた。全ては三日前に遡る。その日の晩餐時、アキレウスはパリスと口論に至り、ヘクトルの機嫌を損ねさせてしまった。
 そこまでは別に良かったのだ。会食の席からつまみ出されたものの、ヘクトルは対応が大人だった。寛大に、二人を許してくれた。『こら、反省したんだろうな』、親が子供をたしなめるような言い方に、素直に頷いてみせれば、にっこりと柔らかい笑みを浮かべてくれた。
 思わずほっと安堵の息をもらし、ヘクトルの笑顔に見惚れていたのが自分一人ではなかったことが気に入らなかったが、ここはヘクトルの寛大さに倣ってパリスの存在は頭の中から消し去ることにした。それが寛大な態度なのかどうかは別として。

 とにかく、そのときのアキレウスは常になく謙虚な気持ちになっていたのだ。

 だが、アキレウスの反省なんぞ鑑みる気のない男が一人、ヘクトルの隣で殊更機嫌の良そうな笑みを浮かべていた。悲しいかなアキレウスは、オデュッセウスのその笑みが、機嫌の良いものではなく(どんなに気持ちいの良い笑い方であってもだ)、不機嫌の極みから来る笑みだということに気付けてしまう。
 本当に機嫌の良いときと悪くて逆に機嫌良く見えるときとの、笑顔の見分けがつけられる。

 経験から得た能力。面白くない(ときには地獄のような)経験の積み重ねにより得た、不必要で無用な能力だ。見分けがついたところで機嫌を損ねさせてしまった以上、オデュッセウスの報復を大人しく受け入れる以外の対処のしようがないのだから。
 視界の隅に、気の毒そうにと顔に書いてあるディオメデスの姿が映った。彼もまた、このしょうもない能力を得ている人物だった

 「アキレウス? 私が食事の時間を台無しにされるのが嫌いなのは知っているだろう?」

 ゆっくりと、一語一語がはっきり聞き取れるように発音する。オデュッセウスが相手を心底バカにしているときの話し方だ。アキレウスの顔が引き攣る。ヘクトルがすまなそうな顔をしてオデュッセウスを見やった。

 「すまないな、オデュッセウス。パリスは普段、大人しい奴なんだが」

 そんなアホ犬の代わりに謝ることなんてないんだ! 無理矢理パリスの頭をオデュッセウスに向けて下げさせているヘクトルに、アキレウスは全力で叫びたかった。だが、いかな短慮なアキレウスにだって、それを実行すればまたぞろパリスと口論になるのは目に見えていたし、何より、不機嫌なオデュッセウスの前での謝罪以外の発言は破滅を意味した。
 ついでに言うなら謝罪したところで効力があるわけでも何でもなかった。情に訴えるということは、オデュッセウス以外の人間にすることであってオデュッセウスにして意味のある行為ではないのだ。
 それは、お気に入りであるヘクトルの場合であってもかわりはない。

 「うん、構わないんだ、ちょっと罰を受けてくれればね。パリスは君の弟だし、アキレウスのことだって私は好いている。悪いようにはしないさ」

 あぁ、でもやっぱり何事もなく済ますつもりはないんだな。手心を加えてくれる気はあっても無罪放免とは言ってくれないオデュッセウスに、アキレウスは妙な納得を感じてしまった。
 頭が良いだけのわがままな男はしかし、その頭の良さゆえにどんなわがままも許される存在なのだ。

 

 そして、三日が経った。地獄だ。アキレウスはこの三日、朝一番に見るパリスの寝顔を見、寝台の上で頭を抱えた。

 アキレウスがイタケに停泊する場合、いつも同じ部屋に通される。寝台が二つ置いてあるだけの簡素な部屋だ。大体がディオメデスと逗留期間が重なるため、二人でその部屋を共用していた。今回もやはりディオメデスとアキレウスはいつもの部屋に通されていた。
 この三日間もやはり、アキレウスはこの、いつもの部屋にいた。だが、ディオメデスはこの部屋にはいない。ディオメデスは(アキレウスからしてみれば)何とも羨ましいことにヘクトルと同室になっている。元はパリスとヘレネに用意されていた部屋だ。ヘレネはヘクトル・アンドロマケ親子のいた部屋に、アンドロマケとその息子スカマンドリオスと共に寝泊りしている。

 オデュッセウスの報復はいとも単純で幼稚なものでありながら、当事者には絶大な効果をもたらしていた。

 騒ぎを起こした当人である、パリスとアキレウスを同じ部屋に押し込めたのだ。こうすれば仲良く出来るだろうと。見た目、普通に本当にただの仲直り促進のための処置に見えるため、ヘクトル他誰からも抗議を受けることなく実行に至った。が、誰よりも(下手したら当事者たちよりも)オデュッセウスが、その報復の効果の大きさを知っていた。
 パリスとアキレウスが仲良く? ありえない! 部屋にいる間中、剣呑な空気が全てを支配していた。大方は互いに無言で過ごし、たまの会話は嫌味や皮肉の応酬。精神衛生すこぶる悪い環境だ。

 「おはようアキレウス」

 相変わらず頭を抱えていたアキレウスに、この三日で初めて聞く極一般的な朝のあいさつが向けられた。驚いて顔を上げると、パリスは寝台に腰掛けてアキレウスをじっと見ていた。
 居心地の悪さに、アキレスは顔をしかめる。パリスの小さな溜息がアキレウスの耳に届いた。掴みかかりたい気持ちを抑え、この、初めての好意的と言える行動に何か意味があるのかもしれないと、不承不承ながらも『おはよう』と返した。
 パリスの顔に、普段見られない種類の笑みが浮かぶ。台詞を加えるならば、『よく出来ました』ってところだろうか。しかしそれは決して愛ある類のものではなく、完全に相手を見下ろした上での発言である。面白くない。アキレウスはパリスを見やる瞳に少し力を入れた。

 「待ってよ、ねぇ、僕は喧嘩を売りたいんじゃないんだ。大人しく聞いててくれる?」
 「お前の言うこと次第だな」

 やはりどこか相手をバカにしたようなパリスの話し方にアキレウスは警戒しながらも、とりあえず相手の意思を尊重してやる。パリスは苦笑して、わずかばかり体をアキレウスの方へと乗り出した。まるで秘密の作戦会議でもし始めそうな雰囲気だ。

 「君は今の状況に耐えられる? 僕はごめんだよ。寝ても覚めても君の顔が近くにある。食事も二人きりだ。ヘレネともろくに口がきけていない。兄さんに至っては皆無!」

 ヘレネと話が出来ていない状況よりも、ヘクトルとの会話が全くないことの方が、パリスにとっては重要らしい、嘆き方が違う。拳を握り締め、実に悲壮な表情をしてくれる。
 しかしまぁ、確かに現状に耐えられなくなっているのはアキレウスとて同じなので、細かいところは突っ込まないでいてやることにして、話を先に進ませろと促す。パリスはこくりと頷いて話を再開させた。

 「それでね、兄さんを抱き込もうと思うんだ」
 「それはつまり、ヘクトルを利用しようって言っているのか?」
 「言葉は悪いけれどね。兄さんは僕達のことをもう全然怒っていないし、何よりおじさんのお気に入り。ここが重要なんだ。おじさんの機嫌を直すためにはどうしたら良いのかってずっと考えていたんだけど、どう考えても無理なんだよね。
 だから、兄さんをこちら側へ引きずり込む」

 真面目な顔で淡々と語るパリスに、アキレウスは関心した。ただのブラコンだと思っていたのに、時と場合によっては、兄すらも利用することを考えつくとは。それも、真っ当にオデュッセウス(パリス曰くおじさん)から切り崩しにかかっても無駄だと、だったら彼のお気に入りを使った方が良いと、賢明な判断を下してだ。

 「ふぅん、お前頭良かったんだな」
 「少なくとも君よりはね。兄さんに近付きたいならもうちょっと頭を使いなよ」

 おっと、三日前の晩餐にて、あれこれとアキレウスが猿知恵を労していたこともバレていたらしい。アキレウスは完敗だとうな垂れる。

 「と、いうわけで、ともかくも僕達は表面上仲良くしなくちゃならない。おじさんは見抜くだろうけど兄さんさえ騙せれば問題ない」

 にこりとパリスが笑う。かくして史上初にして最後になるだろう、パリスとアキレウスの共同作戦が開始されることとなった。二人は地獄から抜け出せるのか、それとも更なる報復にあうのか、その答えはは神にのみぞ……もとい、オデュッセウスの手の中。
 さてはて、どうなりますことやら。 

 

 

短い? 前みたいに2頁にしてでも
一気に書いちゃった方が良かった?
ともかくも次回は犬猿ならぬ犬犬コンビの大作戦。
いろんなところに旅立たせたいと思っているのに
いつまでイタケにいるつもりなんだこいつら!
オデュッセウスの呪いかこら!
だったら良い、喜んでイタケに居続けるv

write 161003 tama

 


オデュッセウス殿、さすがです。何と単純で、しかも確実にダメージを与えられる罰なんでしょうか(笑)
二人の辛さがひしひしと伝わってきます〜!
それにしても・・・ほんとにパリスくんの能天気ぶり、というか、超プラス思考には
感心させられます・・・。見習わねば(笑)(れこ)