良い日にこやか

 ヘクトルはこの、いたく変わり者の新しい友人を気に入っている。短い付き合いの中で、何度かイメージを塗り替えねばならぬこともあった。だが、一度として、その変えねばならぬイメージが悪い方向へ行ったことはなかった。オデュッセウスと言う男は、ヘクトルにとっての初とも言える極上の友であった。
 そう、たとえ、ある特定の人物へ歪んだ愛情を向け、その歪みに我が弟が巻き込まれていたとしても、だ。

 「オデュッセウス、言わなくとも判るだろうが、私が今日あなたをここへ呼んだのは」
 「アキレウスとパリスのことだろう? 判っているとも。許す気はない、イタケにいる間にはね」

 イタケへ来て最初に案内してもらった、オデュッセウスのお気に入りの場所で、ヘクトルとオデュッセウスは二人、海を見下ろしている。ヘクトルの申し出をみなまで言わせず、にこやかにオデュッセウスははっきりと拒否する。
 判っている、オデュッセウスは会食の時間をとても大切にしていて、その時間を台無しにされることを何よりも嫌っているということも。何よりも、アキレウスとパリスの仲が良くなるということがありえないということも、ヘクトルは、判っているのだ。それでも、良き友人になれそうな彼と、愛すべき弟とが少しでも友好な関係になってくれればと期待していた。

 「人間には、どうあっても馬の合わない相手っていうものがあるものだよ、オデュッセウス。それはあなたも知っているだろう? なのになぜ、二人の仲が少しでも良くなるようにするためだなんて嘘をついてあの二人を同じ部屋に閉じ込めている?
 あの二人もいい加減、反省しているようだよ。そろそろ許してやっても構わないんじゃないか」

 今日の朝、パリスとアキレウスとが連れ立ってヘクトルとディオメデスのいる部屋へとやって来た。パリスはいつもの愛嬌のある笑みを浮かべ、アキレウスはギリギリ笑顔と言えなくもない引き攣った顔で、手を繋いでやって来た。

 「兄さん、僕らは反省をして、これからは仲良くやっていこうってことにしたんだ」

 いけしゃあしゃあと言ってのけるパリスの横で、アキレウスは何度も頷いていた、引き攣った顔のまま。何て判りやす過ぎる嘘だろう。けれどパリスは通じると思っているのだ、兄になら、どんなことがあっても信用されると信じきっている。否、兄なら黙って騙されてくれるだろうと期待しているのか。
 甘ったれたパリスの態度を、ヘクトルは叱るべきなのだろうが、そうと思いつつも結局、今回もすんなり騙された顔をしてやった。オデュッセウスに話をつけてやると約束し、二人を部屋に帰した。立ち去り際、アキレウスが物言いたげにしていたのは、嘘が通用していないことに気付いていたからだろう(あれで騙し通せていると思うのはパリスくらいなものだ)。

 朝の出来事を思い出し、ヘクトルは苦笑を浮かべる。オデュッセウスはそんなヘクトルを、驚きの眼差しで見ていた。そんなオデュッセウスにヘクトルは面食らう。

 「どうやったって、馬の合わない人間ってのがいるんだって?」

 オデュッセウスがヘクトルに聞き返す。何を当たり前のことを聞き返すのだろうと不思議に思いながらヘクトルは頷いた。オデュッセウスは幾度もまばたきを繰り返した後、海を見やった。少し驚いた。小さく呟いた。

 「なぜ? あなたは私よりも長く生きているんだ、何度も経験してきたんじゃないのか? そうだろう? こいつとは無理なんだと、諦めるしかないときもある。そういうもんだ」
 「うん、そう。そう、なんだが。君からそういうことを聞くとは思っていなかったんだ。しかし、君から嫌われる奴は可哀想だな」

 トロイア中から嫌われることになりはしないか。オデュッセウスは茶化して笑った。ヘクトルもつられてくつくつ笑う。笑いながら、頭を振って一応否定しておく。

 「嫌うわけじゃないんだ。うん、だがね。具体例を出そうか。ポリュダマスって男がいるんだ。こいつが、よく頭の働く奴でね。どんなときでも冷静で、かなり買ってはいるんだ。
 けど、どうしても彼の言うことには逆らいたくなる。従った方が良いと頭では判っているつもりでも逆らってしまうんだ」

 おかしなものさ。おどけて、すました顔をして言えばオデュッセウスは機嫌良そうに笑う。

 「私の場合は逆だな。オデュッセウスなんかに従いたくないと思うのに、誰も私には逆らえないんだ。可哀想な奴らだな」
 「だってあなたは頭が良い。従うべきだ」

 じっと見据えてヘクトルはオデュッセウスに言う。オデュッセウスはちらりとヘクトルを見、海の方へと視線を向ける。が、恐らく彼の目に海は映っていないだろう。何となくだがヘクトルは思った。
 オデュッセウスがふるふると弱く頭を振った。

 「ただのわがままな男だよ」

 ぽつんと呟かれた言葉が海に落ちていくかと思った。オデュッセウスは確かに背に低い男だが、こんなにも小さく見えたのは初めてだ。ヘクトルは、不意にオデュッセウスの背をさすってやりたくなった。
 実際には何も出来ず、視線すらもそらして終わったが。

 波の音と風の音だけが二人の間に響く。傾き柔らかくなっていく太陽の光を見るともなく眺めていた。隣を見やれば俯くオデュッセウス。こんなに長い時間、二人だけでゆっくりと過ごすのは初めてだったかもしれない。ヘクトルは記憶を遡らせていく。そして浮かぶ一人の王。

 「なぜ、その『わがままな男』がアガメムノンに従う?」

 思った疑問をヘクトルがそのまま口に出せば、オデュッセウスはぴょこんと頭を上げて、悪戯っぽい笑みを向けた。

 「アガメムノンは気持ちの良い男だ。君にとっては諸悪の根源みたいな人間かもしれないが。
 会ってみれば判るさ、あいつは良い奴だよ」

 短い赤毛を風に揺らし、オデュッセウスが柔らかく笑む。赤みを増す光がオデュッセウスを包んでいた。夕日の似合う男だと、ヘクトルは思った。
 苦笑を浮かべたまま黙っていると、オデュッセウスが立ち上がる。ヘクトルは慌てて呼び止めた。
 「ヘクトル、楽しかったよ。思えば君と、こんなにもじっくりと時間を共にするのは初めてだった。楽しかった、実にね。だから今度は、人の多いところへ行ってにぎやかにやろう」
 「そうではなくて、」
 「判っているよ。イタケにいる間はって言っただろう? 明日か明後日にはここを出る。次はピュロスに行こう。ネストルっていう元気な爺さんがいるんだ」

 これもまたお気に入りの人物なのだろう、オデュッセウスがにっこり笑う。

 「今日のオデュッセウスは随分と機嫌が良いみたいだな」
 「あぁ、すこぶるね。やっぱり私は君が好きだな、一緒にいて楽しい。もっと楽しい気分にさせてくれれば、ひょっとしたらイタケを離れる前に二人を許す気になれるかもしれないね」

 冗談めかしてオデュッセウスは屋敷目指して歩き出す。ヘクトルは歩くオデュッセウスの背中を見つめながら、上手くすれば今日中にお許しが出るかもしれないぞと、機嫌良く歩き出した。アキレウスには可哀想だが、少しダシになってもらおう。
 パリスとアキレウスとが仲良く手を繋いでやって来ただなんて、オデュッセウスの喜びそうな話じゃないか! そう、あのときのアキレウスの顔と来たら!

 「オデュッセウス、今朝の二人がどんなだったか話そうか」


 傾く日差し、延びる影。二人の男が歩いてく。にこにこのったり歩いてく。
 にこやかなり、にこやかなり。今日は何て良い日。 


智将二人の対談です。やはりお二人、愚弟や獅子とは格が違いますなあ・・・・・・。
ポリュダマス、出ましたねえ。映画ではヘクトルが非常に思慮深いイメージでしたが、
イリアスで無謀な戦いを止めようとしていたのはこのお方でしたね。
ヘクトルがこんな風に考えていたとしたら、あの展開も納得できるような気がします。

ところで、この話でのtamaさんのコメントが消えてました・・・本当にごめんなさい。(れこ)