恋せよ少年花模様

 ヘクトルとアンドロマケの二人が、今や夫婦の憩いの場となっている、イタケの主オデュッセウスのお気に入りの場所に行き着いたとき、少年は既に髪も冷たくなるほどにそこで過ごした後だった。潮風に吹かれながら物思いに耽る少年の横顔は、どこか父親に似ているようで似ていないようで。少しずつ大人になろうとしている少年を見、ヘクトルは少しばかり風変わりな友人が羨ましくなった。
 オデュッセウスの館に乳母と留守番させている、まだまだ赤子としか言いようのない己の息子を思い浮かべ、早く成長して欲しいような、まだまだ赤ん坊のままでいて欲しいような、不思議な感覚に襲われた。

 少年は、オデュッセウスの息子テレマコスは、確かに今、大人への道へと一歩踏み込もうとしているところであった。

 「やぁ、テレマコス、日の出を見に来ていたのかい?」

 やわらかい笑みとともにヘクトルがテレマコスへと声をかける。夫婦は本当は日の出を見ようとしていた。が、思いかけず出かけに息子のスカマンドリオスがむずかり、日が昇ってしまった頃に海の見える、オデュッセウスお気に入りの場所に着いたという次第だった。
 だから、テレマコスには知りようもないことではあったが、自分たちを揶揄する意味も込めての質問だった。ヘクトルの隣で苦笑するアンドロマケを見、テレマコスは僅かに首をかしげたが、深く気にすることもなく、ヘクトルの目を見据える。

 「そんなようなものです。父さんは日の入りが一番綺麗だというけれど、ヘクトルたちは見た?」
 「見たよ、彼に連れられてね。とても綺麗だった。彼がこの国を愛する理由が判るよ」

 しゃんとした発音ではあるけれど、やはりどこか幼いテレマコスの喋り方につられるようにして、ヘクトルは笑みを深めた。ヘクトルの答えに、テレマコスも嬉しそうに笑顔を見せる。父親同様、自分の国を誇りに思っているのだろう。はにかむようなテレマコスの笑顔に、訳もなくヘクトルは何度も頷いた。

 

 「今日の昼には発つんですよね?」

 しばらく物言わず海を眺めていた。人の言葉を忘れてしまったかのような、気持ちの良い感覚にさらわれそうになっていたヘクトルを、現実に帰らせたのはテレマコスからのおずおずとした質問だった。

 「あぁ、そうだが。そうか、君はここでお留守番だったな。今日でお別れか、寂しくなる」

 オデュッセウスの話では、ネストルのいるピュロスに向って本日の昼頃、イタケを発つことになっている。だが、テレマコスは、母と館を守る役目があるからと、一緒には行かず、イタケに残ることになっている。オデュッセウスは方々に出かけることが多く、あまりイタケにいないらしいから、息子としてはもっと父親と過ごす時間が欲しいと思っていることだろう、ヘクトルは慰めるようにテレマコスの髪をすいてやる。
 ヘクトルが驚くほどオデュッセウスは頻繁にトロイアへとやって来る。それだけでもかなりの時間、イタケを空けていることになるはずなのだが、それにプラスして更に他へも趣いているというからそのバイタリティは計り知れない。そんなにもオデュッセウスはイタケで過ごす時間が短いというのに、他国から見たイタケ最大の脅威は、何を隠そう、その不在期間の長いオデュッセウスだったりもする。

 「うん、うん、その、それで、ヘクトルに頼んでも良いかな?」

 戸惑いがちに見上げてくる瞳に、ヘクトルはこれは困ったことになったぞと、引き攣った笑みを浮かべた。
 つい最近というか前日、弟の頼みごとを聞いてやってオデュッセウスにとりなしてもらったところだというのに、今度はまた、彼の息子からオデュッセウスへの『お願い』を頼まれてしまうみたいだ。

 「とりあえず言ってみてごらん」
 「ピュロスに行きたい。そこまでで良いんだ、お願い、父さんに頼んで僕も船に乗せてもらえるようにして?」

 小首をかしげて瞳を潤ませて。どこで身に付けたんだそんな技術と突っ込みたくなるようなお願いの仕方をされて、更に参る(何だか自分の弟を見ているような気分だ)。しかし、と不思議に思う。『ピュロスまで』とは珍妙なお願いではないか。ヘクトルはてっきり、テレマコスは父親との時間を持ちたがっているものだと思っていたのだが。いやいやでもだぞ。もう一度考え直す。
 ずっと同行したいなんて言ったら反対されそうだから、第一目的地までで良いと遠慮して言っているのかもしれない。それなら納得だ。

 いや待て。更に考え直す。今、ピュロス『まで』ではなく、ピュロス『に』行きたいと言わなかったか? ちょっとした差だが、相手は十の子供なんだし、そんな深い意味はないのかもしれない。だけど、だけど。
 父親の面影の見える、聡明な瞳を見つめ、ヘクトルは熟考する。アンドロマケが笑った。

 「ピュロスに会いたい人でもいるみたいね」

 

 アンドロマケは、多分、ヘクトルの考える限り、何かを思って言ったわけではなかったと思う。直感で思いついたことを、思いついたままに、ふっと口に出してみただけなんだろう。ちょっとだけ、年端の行かない子供をからかう気持ちはあったかもしれない。だが、確信とか、そういったものがあって言ったわけではないはずだ。
 ヘクトルとアンドロマケの目の前で、見ているのも可哀想になるほどに、テレマコスは顔を真っ赤にして動揺していた。

 こんなにも判りやすく動揺されると却って突っ込みにくいものだ。

 「あ、そうだな、うん。オデュッセウスに言ってみるだけ言ってみるよ。そうだ、視野を広げるのも子供の成長には必要なことだとか、そういう理論付けをした方が彼は納得してくれそうだよな、な!」
 「そうね。善は急げじゃない? 昼には出てしまうのだし。今すぐ言いに行ってみたら?」

 何だかもう、この話題を続けるのすら辛くなって、ヘクトルはアンドロマケの発言をなかったことにして無理矢理話を進め、アンドロマケに勧められるまま、オデュッセウスの館へと向った。
 妙に自分の初恋のときのことを思い出させられてしまった。気恥ずかしさとアンドロマケへの後ろめたさとで、自然、ヘクトルの足も速まる。鈍いヘクトルでも、テレマコスの動揺の仕方から何となく伝わってしまった。

 テレマコスの想い人がどうやらピュロスにいるらしい。根掘り葉掘り聞くだけの野暮な野次馬根性を、残念ながら(?)ヘクトルは持ち合わせてはいなかった。

 

 さてさて、こちら、とっとと夫を立ち去らせて、自分は居残ったアンドロマケ。まだ顔を赤くしているテレマコスに話しかける。こちらは人並みに野次馬根性旺盛でありんした。

 「それで? どんな子なの? 年下? 年上?」
 「年、上。2歳上なんだ。最初は憧れてただけだったんだけど」
 「あー、よくある話ねぇ。ふぅん、それで、向こうは知ってるの?」
 「ううん、知らない。知られたくないもの」

 ぽんぽんと不躾な(しかし基本的でもある)質問を仕掛ける。うっかりテレマコスも勢いに押されて素直に答えてしまっている。ちょっと待て自分、何答えちゃってるんだよと、テレマコス自身思うところはあったが、どうしてか答えてしまう。
 何だか楽しげにうんうんと頷きながら考えをまとめているらしいアンドロマケを、じっとテレマコスは見つめる。『母さんより注意が必要な人物だぞ』、楽しげに笑って勧告してくれた父親の顔が脳裡に浮かんだ。今更遅いけど。

 「もしかして、ネストルの娘とか?」

 ぎょっとしてテレマコスは立ち上がった。その態度に己の推測に自身を持ったらしいアンドロマケがにっと笑った。
 遅すぎた、徹底的に遅すぎた!
 父親からの勧告が頭の中を巡る。普段静かなだけに、うっかり注意を怠ってしまう人物・アンドロマケ! なんて頭のめぐりが良いのだろう。あれだけの情報からどうやって図星な結論に辿り着いたんだ!

 「君の交友関係なんて限られてるでしょ」
 「もう、全部白状しちゃうよ!」

 聞いてもない内から答えをくれたアンドロマケに、完全降伏宣言。テレマコスはやっぱりまだまだ子供だった。オデュッセウスならこんなに簡単にも陥落してくれはしないだろう。
 可愛い坊やの頭を撫でてやった。

 

 さてさて、テレマコス坊やの想い人とはいかに? テレマコスは無事ピュロスへと出発出来るのでしょうか! それはお次の講釈にて! 

 

 

ストーリィねぇ! いつものことです(←うわぁ)
マケ姉さん最強伝説が出来上がりました。
ヘク兄ヘタレ伝説もついでに生まれました。
良い夫婦だと思いますっていうか、これ、
ほぼオリジ……(汗)。
次回は映画登場人物も活躍するんじゃないかと思うぞ!

write 170326 tama

 

あ〜、本当にこの二人、素敵な夫婦です!!ヘクトルってば、自分の初恋を思い出しちゃうなんてもう、
かわいすぎ♪(初恋の相手はもちろん、アンドロマケですよ!!)
対して・・・マケ姐さん、人並みに野次馬根性旺盛なところもなんだかいい感じ♪
とっとと餌食になってしまったテレマコス坊やもかわいいですね。

このお話を最後に、このシリーズは終わってしまっています
。“次回は映画登場人物も・・・”の
tamaさんのお言葉がむなしいのですが・・・。ここからどんな展開になるか・・・は、お読みになった
皆様のご想像にお任せします。

ともかく、貴重なお話の掲載をご承諾くださったtamaさま、本当にありがとうございました。(れこ)