妻・アンドロマケの目には、戦場から戻って来た夫の姿は深く闇の中に沈みこんでいるように映っていた。他の者から聞いた話では、トロイ側からの不意打ちで始まった今日の戦いは、唐突に終わりを告げたのだという。詳しいことまでは聞いていない。恐らくあなたの夫が話すだろうと、アンドロマケに事の次第を話していた男は変にぼかした。ただ、アキレスという男はどこまでも我等を悩ませるとだけこぼして。 では実際、部屋で夫の帰りを迎えたアンドロマケに夫から何か話があったかと言えば、まだ何もないのだ。わずかに息子に笑みを向けただけで、それっきり、血に濡れた鎧を外すことすらなく身動きも取らなくなった。声をかけて良いものか判らず、アンドロマケはひたすら夫の後姿を見つめ立ち尽くしているしかなかった。
かくもアンドロマケを不安にさせた名前は未だかつてないだろう。夫の心は一体何に囚われているのか。ひとまず一人になりたいのかもしれないからと、息子を抱いて部屋を出た。せめて不吉な匂いのする鎧を取って欲しい。 父のいない場所へ出たとき、子供はほっとしたように表情を緩めた。 子供は鎧をまとった父があまり好きではないようだった。母親の感情が移っているのかもしれない、アンドロマケは複雑な面持ちで己が腕にある息子を見やる。
「アンドロマケ、スカマンドリオス、おいで」 食事も終わり、後は寝るだけという段になって、夫はようやく口を開いた。松明を持ち、今までアンドロマケの知る由もなかった道を歩く。嫌な予感を懸命に振り払いながらも、敏い妻は夫の歩く道筋をしっかりと頭の中に焼き付けていく。 もう、夫を戦場に送り出さなくても良くなるのかもしれない。ただ、望んでいた形とは違うけれど。 「あまりに若過ぎた」 夫の告白はアンドロマケの不安を確実なものへとしていく。聞きたくはなかった。だが聞かなければならなかった。己から夫を奪い、息子から父親を奪う男の話を。 「彼は私を殺しに来る」
次の日、ヘクトルは死んだ。
「アンドロマケ、入るよ?」 ヘクトルの葬儀の終わる夜(すなわちギリシアとの休戦の終わる夜)、パリスはアンドロマケの元へ訪れた。ヘレンは一緒には来なかった。彼女は昼間ずっとアンドロマケについていたから。 「僕は殺すよ」 ひたと、アンドロマケの視線がパリスに張り付いた。パリスの目は真っ直ぐアンドロマケを映していた。 「戦士は殺すばかりね」 アンドロマケはパリスの視線から逃れるように息子を見やった。 「あなたも戦士だから殺すのね。何を守るために殺すの? もうヘクトルはいないのに」 パリスの目はとても静かだった。アンドロマケはちらりとパリスに視線をやった後、また元の通り父親をなくした息子に視線を戻した。 「だからね、殺すだけ。何も守らない、守れない。僕は殺すだけ。戦士の心なんて必要ない。殺したいだけだから」 パリスは微笑んだ。同時に、息子を見ていたアンドロマケも微笑んだ。それは、何を思っての笑みだったのか、互いには判らないままの。息子は、鎧をまとう父を見るときと同じ顔をしていた。
「戦士なんていらなかった。私は、トロイが陥ちても家族を育む夫でいて欲しかった」
映画ベース。スカマンドリオスは息子の名です。 write 160615 tama |
イリアスでも、息子はお父さんの兜が怖くて泣いちゃうんですよね・・・鎧姿の嫌いな息子。
でも、それは、母の気持ちを代弁しているのかもしれません。
そして・・・ついに来てしまった夫の、父の、兄の死の重さ・・・
マケさんの気持ちを考えると、本当に辛いですよね、月並みですけど・・・
(れこ)