何かの祝いで飲んだ。何の祝いだったかは忘れた。
飲み過ぎ足腰のたたなくなったパリスはヘクトルに伴われ、酒宴の席から離れ、ヘクトルの私室までやってきていた。もうじきヘクトルは結婚してしまうため、以前のように夜中突然押し掛けて、兄を困らせる事も出来なくなる。 そうだ、パリスは思い出す。今夜の宴は何を隠そうヘクトルの婚姻の前祝いだった。 ひっそりと内輪で行われるはずだったそれは、ヘクトルの人徳だろう、そうそうたる顔ぶれが揃い、公のものとさほど変わらない規模になってしまった。 客人の集まるところではパリスがその愛嬌でもてすという暗黙のルールがいつの頃からか出来ており、パリス自身、妙な義務感に迫られ忠実に遂行していた。で、無理が祟って足腰たたなくなってしまったわけだ。
「大丈夫か?」
「うーん、何とか」 だがパリスの返事とは裏腹に、ヘクトルの寝台に横たわる彼は、ちっとも『何とか』なっていなかった。苦笑してヘクトルは、寝台に腰掛けて上から弟の顔を覗き込む。酔っても顔に出ないため、ヘクトルもそうなのだが、特に弟のパリスは許容範囲を超えてもまだ酒を勧められ、飲み続けてしまう。
『大人の付き合いって大変だな』と、成人したばかりの頃、したり顔でパリスが言ったことを思い出し、もう一度ヘクトルは笑った。 「兄さん、酒に潰れた弟がそんなに愉快かい?」
愛想の良い弟が珍しく、むっとした顔を兄に見せる。兄は微笑を浮かべ弟の髪を優しくすいてやった。
「違う、そういうつもりはない。そう拗ねるな」
不機嫌な顔を長持ちさせられず、うっとりと目を細める弟を宥める。誰からも愛される弟は兄の自慢であり、また、愛しくもある。ぐしゃぐしゃと髪をかき混ぜてやれば、言葉になり切っていない抗議の声を上げて、パリスはヘクトルの腕を引いた。特に抵抗する理由もないのでヘクトルはパリスの好きなようにさせて、素直にパリスの上に引き寄せられた。
「顔も見たこともないような女に僕の兄さんを持ってかれちゃうんだ」
「結婚したって私がお前の兄であることに変わりはないよ」 拗ねた声で言う弟に、兄は優しく諭してやる。だが、納得がいかないと、パリスは表情を曇らせる。弟のわがままを笑うヘクトルを強く抱き寄せた。パリスがヘクトルの首に腕を巡らせ、しっかりとその胸に抱き寄せると、さすがにヘクトルも驚いて、体を離そうとした。思いの外腕の力が強く、それは叶わなかったのだけれど。
「どうしたんだ? 酔っているのか?」
「酔ってるよ。兄さん、何を今更。兄さんこそ酔ってるでしょ」 パリスはスキンシップを好む傾向があるが、こういったことは初めてで、ヘクトルは戸惑っていた。何か、切羽詰ったものがあって。
気のせいだろうと思おうともしたが、腕に込められる力が、ヘクトルの困惑を助長させる。酔っているのかと、もう一度訊いた。 「酔ってる。悪い酔い方をしたみたいだ。兄さん、これからすることは酔っ払いのすることだから」
何があっても気にしないでと、言い切らない内に、パリスは不意打ちでヘクトルの顔を己のそれにぐいと近付けさせた。戦場にあるのならばともかく、弟と自室に、それも酒の入った状態で気の抜けていたヘクトルは、弟の思うままに口付けを受けてしまった。事の展開に驚き、がばりと体を離す。パリスは放してやる気はさらさらなかったが、加減のないヘクトルの力には敵うわけもなく。
「何を」
「だから、酔っ払いの戯れ事だったら」 「パリス!」 「気にしないで。お願い、今だけ許して」 か細い声で請うように言われ、弟を叱り付けるタイミングを逃してしまった。パリスは上体を起こし、代わりにヘクトルを横たえさせた。顎から首、胸板へと手を這わせていく。兄は、哀れみの目で弟を見上げていた。
「なぁパリス、誰もお前を一人にはさせやしないよ。だからそんな顔をするな。言っただろう? 結婚しようと私がお前の兄であることは変わらないんだ。お前はこれからも私の自慢の弟だ」
そっと腕を伸ばして弟の頬を撫でてやる。パリスは目を閉じ、頬に触れる兄の手に自分の手を重ねた。もう片方の手を兄の頬にやる。兄は、自分の頬に触れてきた手を取り、軽く口付けてやった。逆の手は、まだ弟の頬にある。
「本当に僕は自慢?」
「あぁ、自慢だとも。他にも兄弟はいるが、お前ほど人に愛される者はいない」 頬にある手でパリスを引き寄せる。さっきと逆だと呟いて、パリスは大人しくヘクトルの胸の中に落ち着く。頬にあった手は、今はパリスの髪を梳いていた。
「兄さん、今夜は甘えさせて? 一緒に寝よ?」
「困った弟だな。いつになったら大人になってくれるんだ?」 「兄さんの前ではいつまでも子供のままでいたいんだ。構わないよね」 顔を上げて、兄にいたずらっぽい笑みを向ける。ヘクトルは困ったような笑みを浮かべたが、その実、弟の甘えが嬉しくもあった。ぽんぽんぽんと軽く頭を叩く。しまりのない表情で、パリスは子供みたいにヘクトルに抱きついた。
「アンドロマケはとても聡明な女性だよ。お前のことも可愛がってくれるだろう。仲良くな?」
「そんな名前なんだ、ふーん。兄さんその人のこと好きなんだ」 「からかうなよ」 面白くないとしっかり顔に出している弟に、兄は照れ笑いを浮かべた。弟は更に不機嫌な顔になる。
「仲良くはするけど、簡単には僕の兄さんはやらないんだから」
弟の宣戦布告に、兄は弾けるように笑った。兄の笑い声を聞きながら、パリスは気持ち良く眠りについた。
そうだ、結婚の祝いのときには、酔ったふりして初夜の邪魔をしてやろう。弟の不穏な計画なんて知る由もなく、ひとしきり笑った後、兄は可愛い可愛い弟に抱きつかれたまま眠った。
何はともあれご成婚おめでとうございます。 ---------------------------------------------------------------------- へーい、キスまでさせといて
やっぱりただのブラコン話になったぜ! 良いのよ、パリスがブラコンでヘタレでなかったら それはもう、パリスでないもの。 万歳ヘタレブラコン! で、やっとお兄ちゃん側の感情も書けました。 ブラコン兄弟です、こいつら。そして愛妻家お兄ちゃん。 write 160617 tama |