ただ一人のあなた

 兄さんが、こんな人だっただなんて!

 

 パリスらはその日、父王・プリアモスの計らいにより、別室で食事を取っていた。すなわち、パリス・兄のヘクトル・兄と婚姻したばかりのアンドロマケの3人でだ。他の兄弟に比べ、パリスの、アンドロマケへの態度がぎこちないからと。
 少ない人数で食事を取っていれば、自然、打ち解けていくのではないか。プリアモスの気遣いはしかし、パリスにとっては余計なお世話でしかなかった。だが、父王の提案を無下にも出来ず(躊躇すれば却って不仲説が沸き起こるだけだ)、パリスは実に従順に父王の小さな親切に従った。

 その結果がこの惨状だ。

 パリスはあえて、この状況を『惨状』と呼ぶ。パリスの目の前には夫婦の姿。それも、想像に絶するほどに仲睦まじい夫婦の、だ。人目を憚れと、この場にいる唯一の『人目』であるパリスは思った。
 すっかり人払いをした部屋には、本当に3人しかいない。給仕の者も何もいない。ただ、3人だけの部屋で、パリスは珍しいはずの渋面を大安売りしているのだが、他二人は全く気付く様子も見せない。この場にいるのが3人であるということに気付いているのかどうか。一応、パリスも交えての会話も成り立ってはいるのだが。
 何と言うか、この場だけを見ると、ヘクトルこそがパリスとアンドロマケの上手く行かない原因であるかのよう。

 ヘクトルが、こつりとアンドロマケの肩に己の肩を触れさせる。瞬時、食事に気を取られていたアンドロマケが、ヘクトルを見やる。全く、見てられない。パリスは正直辟易していた。兄はさほど、スキンシップを取る方ではないのに。
 と、ヘクトルがパリスの目を見張らすようなことをする。アンドロマケの唇をちろりと舐め、それから口付けた。顔を離して、アンドロマケの耳元で一言、小さな声で何かを残す。それは小さくて、他の誰に聞こえるはずもない声で。
 ヘクトルの頭が元あった場所に戻る頃には、頬を赤らめ口元を抑えるアンドロマケが出来上がっていた。

 パリスはしっかり聞き取っていた。兄の声だけはどんなに遠くとも、どんなに小さくともしかと聞き取る自信のある耳で。

 「ついてる」

 何も付いていやしなかったよ! 心の中で絶叫した。声に出さなかったのはまだ、パリスに自制心が残っていたからだ。そんなに注意を払って義姉の顔を見ていたわけではないので確信はないが、口に食べ物を付けた状態で食事をしている行儀の悪いアンドロマケなんて、パリスには想像出来ないし、何よりそんな意外な姿、いやでも目に付くはずだ。
 なのに、平然とした顔で、兄は『口に付いていたものを舐めとってあげたのだ』とうそぶく。

 全く、兄さんがこんな人だっただなんて! パリスの目には最早、アンドロマケなんぞ入りようがなかった。


 夜も更けたが、月が明るくてパリスは眠れないでいた。眠れない理由は他にもあったのだが、あえて思い出さないようにしていた。気を抜くと食事中の映像がぐるぐる回りだす。

 ぶらぶらと、一人中庭を歩く。ふっと月を見上げて溜息をつく。夜なのに明るすぎる。眠れない苛立ちを、パリスは月にぶつける。月に八つ当たりしてちょっと気の晴れたパリスが視線をずらすと、兄の部屋が見えた。正確には、窓辺に立つ兄夫婦の姿が。
 互いの手にあるのは恐らく酒だろうが、二人とも正体を無くすほど飲み明かしているという風でもない。兄の好きな酒の嗜み方だ。相手の言葉を楽しみながら、酒がむしろ会話の肴であるかのように。ああいう飲み方は、気心知れた相手でなければ無理だ。
 ショックだった。ただ、純粋に素直に、ショックだった。


 潮風はべたつくけど、嫌いじゃない。翌朝、朝食も取らず、パリスは馬を駆って浜辺へと来ていた。嫌なことがあったときは海を見るのが一番。そうパリスに教えてくれたのは誰だったか。兄だった気もするし、他の誰かだったかもしれない。ともかくも、とても適切なアドバイスであったのに間違いはない。浜辺に来て海を眺めていると、どんなことがあった後でもパリスの心は嘘のように落ち着く。
 荒れた海などを見ると、普段は内に眠っている闘争心が湧き上がることもあるが。それはそれでまた、常にない己を自覚出来て面白い。

 遠く、蹄の音が聞こえたと思ったら、あっと言う間に近付いて、ついには人の声が振ってきた。パリスが浜辺に腰を下ろしたまま振り向くと、意外な人物が馬から降りて立っていた。

 「アンドロマケ、あなたは馬に乗れたのだね!」
 「えぇ、父にはあまり喜ばれなかったけれど」

 太陽の下、いたずらっぽく笑うアンドロマケは、いつもとは違った雰囲気に見えた。パリスは落ち着かなく、視線をさ迷わせ、ともかくもと、隣に座るよう勧めた。誘われるままにパリスの隣に腰を下ろしたアンドロマケの手には、籠があった。何となく、籠の中身に当たりがついて、パリスは気恥ずかしさが抑えられなくなる。

 「朝食は、ちゃんと食べなきゃ。ヘクトルも心配していたわ」

 ずっとパリスの前に差し出された籠の中には、やはり、パリスの思った通り、朝食が入っていた。ごにょごにょとお礼らしき物を口にして、籠に掛けられていた布を外す。中を見ると、一人分にしては妙に多い。窺うようにアンドロマケに視線をやると、先ほどの笑みを向けて、アンドロマケが籠の中身に手を出した。
 あぁ、とパリスは悟る。

 「昨日の晩の仕切り直し、なのかな」
 「まぁ、そんなとこ。昨日の晩、あなたを見かけたの。中庭を歩いていたでしょ? そのときに、ヘクトルがきっとパリスは明日海へ行くよって」

 朝ごはんを持たされて浜辺まで来たら本当にいるのだもの、彼には予見の力でもあるのかと驚いたわ。年よりも随分と若く見える笑みをパリスに向け、おどけた様子でアンドロマケが事の経緯を話した。
 照れくさくなってパリスは、首の後ろを掻きながら朝食に手をつける。

 「僕も見たよ、あなたが兄さんと話しているところを」

 さっきまで、忘れようとしていたことを自ら掘り返してパリスはアンドロマケに言う。

 「とても、ショックだったよ、正直に言うとね。兄さんは、限られた相手としか、ああいう、二人だけでお酒を飲むということをしないから」
 「その、『限られた相手』の中に、パリス、あなたがいるのね」
 「うん。他にも『限られた相手』はいるけど、一緒に飲む回数はね、僕が一番多いと自負してる」

 ふんぞり返りそうな様子で自慢気に話すパリスを、アンドロマケは笑った。パリスは不思議なほど不愉快な思いをしなかった。アンドロマケの笑い方はまるで、そう、兄・ヘクトルがパリスの失敗やいたずらを笑うそれに似て、とても柔らかだったから。
 不意に、アンドロマケの表情が引き締まる。姿勢を正さなければならないような、変な緊張感に包まれて、パリスはアンドロマケの言葉を待った。

 「でも、これからは私が一番よ」

 呆気に取られるパリスを、アンドロマケはもう一度笑う。盛大に、笑った。こんな笑い方をする人だったのか。

 「昨日、ヘクトルとずっと話していたの。お互いの知らない自分を、お互いに知りたいと思ったから」

 笑いを引っ込めたアンドロマケが海を見ながら話し始める。とてもきれいな海ね。一度だけ話をそらして呟いた。

 「ヘクトルったら、話の半分はあなたの話なんだもの! ねぇ、あの人はこの都・イリオスのことばかりではなく、国中のことを気にかけているっていうのに、半分はあなたの話なのよ! 聞いていておかしくって仕方がなかった。遂に笑い出した私を、あの人、とても不思議そうに見るのよ。気付いていないのよ、自分では全く」

 そのときのことを思い出したのだろう、一度引っ込んでいた笑いがまたアンドロマケを支配する。ひとしきり笑って笑って、パリスを真顔で見た。パリスは、咀嚼中の食べ物を喉に詰まらせそうになった。

 「あなたは愛されているのね」
 「うん」
 「まぁ、即答?」
 「一番は譲らないよ」

 真剣な、宣戦布告。けれど、アンドロマケは笑い飛ばした。むっとするパリスを真正面に見据えて、アンドロマケは口を開いた。

 「言ったでしょ、これからは私がヘクトルの一番よ」

 顔を見合わせて、二人は弾けるように笑った。朝食を済ませ、意気揚揚と馬に跨り、まるで凱旋でもしてる気分で樫の木を通り過ぎる。スカイア門ではヘクトルが腕組みをして立っていた。馬上で会話をしながら帰って来た二人を見るなり、表情を和らげる。

 「おかえり」

 ヘクトルの声に迎えられて、二人は彼の守る都の門をくぐった。

 

 さぁ、戦いの始まりだ。ヘクトルはまず、どちらの名を呼ぶ? 


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さて、冒頭のバカップル話は本当に必要だったのでしょうか。
ていうか、趣味垂れ流しです(笑)。
ブラコンも好き! 夫婦も好き!
それが伝われば充分過ぎます。
しかし、こんな長くなる予定はなかったのに。
思っている以上に弟vs妻の話が好きらしいです。
ていうか、この夫婦が結婚したのっていつなんだろ。
トロイア戦争始まってからそんな余裕はなかっただろうと
思って戦争前設定でいるのですけれど。
でも戦争終わりごろに子供赤ん坊……う〜ん。
パリス、子作りの邪魔立てでもしていたか?(コラ)

write 160625 tama


妻と弟、こういう正々堂々とした勝負もいいですね♪
でも、何と言っても、劇甘な夫婦がもう、最高♪
映画でのお兄ちゃんはいつも困った顔をしているので、こういう劇甘な姿も想像すると安心します(笑)
(れこ)