兄さんが、こんな人だっただなんて!
パリスらはその日、父王・プリアモスの計らいにより、別室で食事を取っていた。すなわち、パリス・兄のヘクトル・兄と婚姻したばかりのアンドロマケの3人でだ。他の兄弟に比べ、パリスの、アンドロマケへの態度がぎこちないからと。 その結果がこの惨状だ。 パリスはあえて、この状況を『惨状』と呼ぶ。パリスの目の前には夫婦の姿。それも、想像に絶するほどに仲睦まじい夫婦の、だ。人目を憚れと、この場にいる唯一の『人目』であるパリスは思った。 ヘクトルが、こつりとアンドロマケの肩に己の肩を触れさせる。瞬時、食事に気を取られていたアンドロマケが、ヘクトルを見やる。全く、見てられない。パリスは正直辟易していた。兄はさほど、スキンシップを取る方ではないのに。 パリスはしっかり聞き取っていた。兄の声だけはどんなに遠くとも、どんなに小さくともしかと聞き取る自信のある耳で。 「ついてる」 何も付いていやしなかったよ! 心の中で絶叫した。声に出さなかったのはまだ、パリスに自制心が残っていたからだ。そんなに注意を払って義姉の顔を見ていたわけではないので確信はないが、口に食べ物を付けた状態で食事をしている行儀の悪いアンドロマケなんて、パリスには想像出来ないし、何よりそんな意外な姿、いやでも目に付くはずだ。 全く、兄さんがこんな人だっただなんて! パリスの目には最早、アンドロマケなんぞ入りようがなかった。
ぶらぶらと、一人中庭を歩く。ふっと月を見上げて溜息をつく。夜なのに明るすぎる。眠れない苛立ちを、パリスは月にぶつける。月に八つ当たりしてちょっと気の晴れたパリスが視線をずらすと、兄の部屋が見えた。正確には、窓辺に立つ兄夫婦の姿が。
遠く、蹄の音が聞こえたと思ったら、あっと言う間に近付いて、ついには人の声が振ってきた。パリスが浜辺に腰を下ろしたまま振り向くと、意外な人物が馬から降りて立っていた。 「アンドロマケ、あなたは馬に乗れたのだね!」 太陽の下、いたずらっぽく笑うアンドロマケは、いつもとは違った雰囲気に見えた。パリスは落ち着かなく、視線をさ迷わせ、ともかくもと、隣に座るよう勧めた。誘われるままにパリスの隣に腰を下ろしたアンドロマケの手には、籠があった。何となく、籠の中身に当たりがついて、パリスは気恥ずかしさが抑えられなくなる。 「朝食は、ちゃんと食べなきゃ。ヘクトルも心配していたわ」 ずっとパリスの前に差し出された籠の中には、やはり、パリスの思った通り、朝食が入っていた。ごにょごにょとお礼らしき物を口にして、籠に掛けられていた布を外す。中を見ると、一人分にしては妙に多い。窺うようにアンドロマケに視線をやると、先ほどの笑みを向けて、アンドロマケが籠の中身に手を出した。 「昨日の晩の仕切り直し、なのかな」 朝ごはんを持たされて浜辺まで来たら本当にいるのだもの、彼には予見の力でもあるのかと驚いたわ。年よりも随分と若く見える笑みをパリスに向け、おどけた様子でアンドロマケが事の経緯を話した。 「僕も見たよ、あなたが兄さんと話しているところを」 さっきまで、忘れようとしていたことを自ら掘り返してパリスはアンドロマケに言う。 「とても、ショックだったよ、正直に言うとね。兄さんは、限られた相手としか、ああいう、二人だけでお酒を飲むということをしないから」 ふんぞり返りそうな様子で自慢気に話すパリスを、アンドロマケは笑った。パリスは不思議なほど不愉快な思いをしなかった。アンドロマケの笑い方はまるで、そう、兄・ヘクトルがパリスの失敗やいたずらを笑うそれに似て、とても柔らかだったから。 「でも、これからは私が一番よ」 呆気に取られるパリスを、アンドロマケはもう一度笑う。盛大に、笑った。こんな笑い方をする人だったのか。 「昨日、ヘクトルとずっと話していたの。お互いの知らない自分を、お互いに知りたいと思ったから」 笑いを引っ込めたアンドロマケが海を見ながら話し始める。とてもきれいな海ね。一度だけ話をそらして呟いた。 「ヘクトルったら、話の半分はあなたの話なんだもの! ねぇ、あの人はこの都・イリオスのことばかりではなく、国中のことを気にかけているっていうのに、半分はあなたの話なのよ! 聞いていておかしくって仕方がなかった。遂に笑い出した私を、あの人、とても不思議そうに見るのよ。気付いていないのよ、自分では全く」 そのときのことを思い出したのだろう、一度引っ込んでいた笑いがまたアンドロマケを支配する。ひとしきり笑って笑って、パリスを真顔で見た。パリスは、咀嚼中の食べ物を喉に詰まらせそうになった。 「あなたは愛されているのね」 真剣な、宣戦布告。けれど、アンドロマケは笑い飛ばした。むっとするパリスを真正面に見据えて、アンドロマケは口を開いた。 「言ったでしょ、これからは私がヘクトルの一番よ」 顔を見合わせて、二人は弾けるように笑った。朝食を済ませ、意気揚揚と馬に跨り、まるで凱旋でもしてる気分で樫の木を通り過ぎる。スカイア門ではヘクトルが腕組みをして立っていた。馬上で会話をしながら帰って来た二人を見るなり、表情を和らげる。 「おかえり」 ヘクトルの声に迎えられて、二人は彼の守る都の門をくぐった。
さぁ、戦いの始まりだ。ヘクトルはまず、どちらの名を呼ぶ?
さて、冒頭のバカップル話は本当に必要だったのでしょうか。 write 160625 tama |
妻と弟、こういう正々堂々とした勝負もいいですね♪
でも、何と言っても、劇甘な夫婦がもう、最高♪
映画でのお兄ちゃんはいつも困った顔をしているので、こういう劇甘な姿も想像すると安心します(笑)
(れこ)