プリアモス王の声を聞きながら、一枚一枚、アキレスの目を覆っていたものが剥がされていった感じがした。ヘクトルを殺したのだと、改めて自覚した。
体だけでも父親の元へ返すため、散々に引き摺りまわした男の下へと足を運ぶ。汚れ傷ついた今となっても尚、戦士としての高潔さを失っていない男に、思わず跪いた。汚れを丁寧に拭ってやる。 「ヘクトル、ヘクトル」 意味もなく名を呟く。当然返って来る答えがあろうはずもなく。虚しい呟きを、けれど、アキレスは止めることが出来なかった。 「ヘクトル、ヘクトル。俺はあんたを殺した。殺した。ヘクトル、殺したんだ」 消し去りようのない事実を動かない体に何度も何度も繰り返す。名前と、事実と。どちらも深くアキレスに刻み込まれる。 「殺した。こんな、殺し方を」 拭う手が止まる。ヘクトルは息をしない。死んでいるから、殺されたから。体を拭う、その男に。 「俺は、あんたと戦いたかったのに。ただ殺した。激情で、抑え切れなくて、何も感じなかった」 止まっていた手をのろのろと動かす。顔を、拭う。 アキレスはアポロン神殿での昂揚を今でもしっかりと覚えている。喜怒哀楽で言うなら喜と楽。それも楽の含むところの多い。 首を拭い、腕を拭う。槍を投げ剣を振るっていた腕を。 何度も想像した。槍で貫く、剣で掻き斬る。一筋縄ではいかないだろう。こちらも何度も攻撃を受け、傷を作らされるかもしれない。ヘクトルの槍を除け、剣を避け、渾身の一撃を。易々と流されるだろうか、少しはたじろぐだろうか。 それを、 「俺は、最高の戦いをしたか? ただの獣だったか? どうして、俺は」 いずれにせよ、殺していた、と、思う。だが、あんな殺し方をしたかったわけじゃない。 アキレスは慟哭した。ヘクトルの体に顔を埋めて。
けれど、それは許されない。 けじめをつけよう。約束の期限を過ぎたとき、ギリシア軍が何をするかは知らないが。けじめをつけるんだ、何が出来るか知らないが。何をすればけじめになるのか知らないが。 一人になった陣屋の中、アキレスは時が過ぎるのを待った。
アキ→ヘクでした。アキヘクと言い張るよ。 write 160709 tama |