ヘクトルは寝台に腰掛け、ぼんやりそ外を眺めていた。背後の入口から、ひょっこりと入って来たパリス。深く息を吸うと、思いっきり優しい声を出す。兄さん、声にヘクトルが微笑と共に振り返った。それを合図にパリスは兄の背中目掛けて駆け出した。 「兄さん」 背中に抱きつくなり、忙しなく胸や腹に手を這わすパリスを、ヘクトルが笑う。パリスは拗ねたような抗議の声を上げたが、手を休めようとはせず、徐々に徐々に、下へと移動させていく。 が、突然何を思ったか、腕の力を緩め、背後からヘクトルの顔を仰ぎ見た。ご機嫌の笑顔がパリスの顔に浮かんでいた。 「アンドロマケとするときはいつもどうしてるの? そういう風なのが良いなら僕もそれに合わせるよ」 にっこり笑って言うパリスに、ヘクトルは軽く睨みをくれてやる。パリスは時折こうやって、無邪気に兄夫婦の性生活に首を突っ込んでくる。それも、兄がそれを嫌うことを判っていて、だ。 「私ならまず、キスくらいはするぞ、パリス」 言って、自分の言葉に照れ笑いを浮かべる。言いたいことを言うだけ言って、離れていこうとする兄を、パリスは慌てて抱き繋げる。首に手を添えて優しく引き寄せる。ヘクトルの顔にもパリスの顔にも柔らかな笑み。 「ぼめん、兄さん好きすぎて忘れてた」 くつくつ笑ってついばむようなキス。何度も何度も、最終的にヘクトルからしつこいと怒られるまでパリスは繰り返した。結婚しても変わらず愛しい兄。強いて言うなら、以前は翻弄されるだけだった兄が、この頃は逆襲のように余裕を見せるようになったのが気に入らない。なんて思っていたのに、気付けばそれすらも楽しみの内に入るようになっていた。
さてこちら、主がいないはずのパリスの部屋に女が一人忍び込んで来た。寝台に向かって慎重に足を運ぶ。 カタリ。 調具に体をぶつけ、音を鳴らしてしまう。女は自分で立てた音に驚いて立ち止まった。そのとき、むっくりと、寝台から体を起こす者がいた。女は甘ったるい誘うような笑みを浮かべる。 「こんな夜分に来ていただいて申し訳ないのだけれど、パリスならいないわよ」 笑みを引っ込める。声は知っている人間のものだったが、期待していた人物とは違った。恐る恐るといった体で口を開く。 「アンドロマケ?」 ついでに言うなら私の部屋でもあるところ。と、笑って付け加えながら寝台に座るアンドロマケは答えた。忍び込んできた女は呆気に取られる。 「信じられないあの男、まだ続けていたの!」 女のいう『あの男』がパリスのみを指しているようだったので、アンドロマケはするりと肯定してやる。そもそもこの国にヘクトルを軽んじる者なんて、存在しない。 「アンドロマケ、あなた夫を易々と義弟にくれてやってるの?」 快活にアンドロマケは笑う。女は呆れた。今正に、自分の夫が、弟と体を重ねているだろうに、焦ることもなく、逆に余裕で構えている。この自信はどこから来るのか。結婚後も火遊びをやめない夫に焦りはないのか。 「違うわ違う。火遊びだなんて! 彼らのあれはスキンシップみたいなものなのよ。ねぇあなた、あなたは自分の兄弟を抱きしめたりキスしたりはしない? それと変わらないのよ、あの二人には」 やっぱり笑ってアンドロマケは言う。女には到底理解出来ない理屈だった。本人たちのつもりはともかく、やっていることは同じだ。トロイアは一夫多妻制だから、何人もの人間を一度に愛するのは当たり前のように見てきてはいる。が、幾人もの妻達は皆、夫の寵愛を一番に受けようと必死だ。それが普通じゃないか。 「パリスなんかより、あなたにハマってしまいそうよ、アンドロマケ」 大袈裟に、けれどあながち全部が全部冗談というわけでもない風に言う女に笑みをくれてやる。女はパリスと過ごすより楽しい夜だったと言って本来自分のいるべき場所へと戻っていった。
事後の気だるいまどろみの中、無理矢理体を起こしてパリスは兄の顔を覗き込む。毎度、不思議だったのだ。パリスは夫婦のお楽しみ中に闖入するハメに遭うのは嫌だったので、兄の元へ訪れるときはいつも、兄に前以て知らせてあった。そうしておくと、アンドロマケはヘクトルを一人残して部屋を空けておいてくれるのだ。その間、パリスの部屋にいれば良いと言ったのは、他ならぬパリス自身ではあったが。 「私がパリスのところへ夜這いへ行くのと、パリスが私のところへ夜這いへ来るのと、どちらが我慢出来る?」 重い体をのったり起こしながら、ヘクトルが部屋の入口に向かって言った。パリスはよもやと慌てて体を起こし、兄と同じように部屋の入口へと視線をやった。 「そうね、ではパリスに来てもらいましょう。そうすれば、回数が減ってあの子が拗ねることもないでしょうから」 ゆっくりと、笑った。アンドロマケの笑みはパリスを通り過ぎてヘクトルに向けられていた。ヘクトルも、穏やかに笑い返す。寝台にパリスを残し、ヘクトルは立ち上がると腰布を巻きつける、その間にもアンドロマケはベランダへと歩を進める。ヘクトルが腰布を巻き終わった頃に程良くアンドロマケが彼のところまで辿り着いており、二人揃ってベランダへと出て行った。 「あぁ、全く!」 憎々しげに言うてみるも、顔の筋肉は緩んでしまう。どうしようもなく愛しているのだ、兄を、義姉を。 「アンドロマケ、最近時間を見計るのが上手くなりすぎているよ!」 前までは朝までパリスの部屋で過ごしていたのが、この頃はわざわざ終わったころを見計らって戻ってくるようになっていた。夫婦のために情事の後残る寝台を眠るのに適したよう整えながら、パリスはごちた。 「だってパリス、あなたの部屋にいると、何人も人が訪ねてきてなかなか眠れないのよ。今夜は二人の女性が来たわ。一人は随分と、恐れ多い相手に手を出したものね」 あぁもうっ、愛してるよ二人とも! 自棄になって叫んで、眠れるよう整えた寝台をぱんと手のひらで叩いた。夫婦は用済みとばかりにそろって手を振ってパリスを見送ってくれた。 ちくしょう、いつか奪い返す。決意も新たにパリスは己が部屋へと帰って行った。さてはて、この義姉に勝てる日なんて来るのでありましょうか。
相変わらず妻vs弟を書こうとすると長くなります。 write 160816 tama |