ティベリウス語り 

2.青年期 最前線での活躍

ここでティベリウスの青年期における政治上、軍事上の実績を振り返ってみます。

 初の軍務経験は、少年期のところで述べましたように、おそらく15歳前後。正式な初陣は、ローマの法律を考慮すると17歳になってからではないかと思われます。
 その後、アウグストゥスの東方再編成に随行し、必要に応じて敵国に『脅しをかける』(笑)なんてことも行ったようです。彼は立派に役目を果たし、各国での政治的処理もきちんとこなしています。アウグストゥスは軍隊で指揮を執れば負けてしまう人だったらしいので、ティベリウスはさぞ、頼りになったことでしょう。それで脅しは功を奏し、(直接軍を進めた相手ではないのですが)脅しをかけた相手である、この時代のローマにとっての最大の仮想敵国パルティアと平和条約を締結することとなります。この際、21歳のティベリウスはローマ代表として調印式に臨みます。事実上の“皇太子”的役割でしょう。(ちなみに、十数年後、アウグストゥスの孫のガイウスもこの役目を負って東方を訪れましたが、条約再締結は行われたもののその後失態が多々見られ、最後には死んでしまいます。年齢は、このときのティベリウスと同じくらいでしたが、エライ違い!)

 やがて、アウグストゥスは、帝国の北方の防衛線確立のために動き出します。紀元前16年、『おそらくアグリッパの作戦指導のもとに、26歳のティベリウスとその弟で22歳のドゥルーススの陣頭指揮で始まった』(文庫15巻p48)そうです。ちなみにアグリッパは生涯、アウグストゥスの右腕であり続け、軍事や公共事業で彼を支えた人でした。
 ティベリウス軍、ドゥルースス軍共に順調に任務を遂行し、作戦は大成功。帝国の北方の安全は保証されるようになりました。ドゥルーススの戦いぶりは華やか、対してティベリウスのほうは堅実な攻め方だったようです。タイプは違いますが、二人は仲がよかったらしいですから、それぞれに軍隊を率いながら協力してうまく作戦を遂行させていたのでしょう。とにかく二人の戦果はすばらしく、市民は熱狂しました。帝国の防衛線確立は、もはやこの兄弟無しではありえない状況だったかと思います。

 そして、アグリッパの死後である紀元前12年、アウグストゥスは、後世から見ると明らかな失策を進めようとします。それは、帝国の防衛線をライン河からエルベ河に移す試みです。これは、『ラインとエルベの両河にはさまれた広大なゲルマニア(現代のドイツの大部分)とそこに住むゲルマン民族を制圧し、ローマ帝国に組み入れることを意味したのである。』(文庫15巻p163)
 地図上でみると、確かにそれは合理的に見えます。国境線がずいぶん短くなるからです。だから、防衛に必要な軍隊の数も減らすことが出来るようになるのでは、とアウグストゥスは考えたのでしょう。でもそれは、机上の論理でしかなかったのです。
 実際に、これより数十年前に、ゲルマンの地であるライン河東岸まで足を踏み入れたカエサルは、その民族性などから、ゲルマンに攻め入ることの困難さを理解していたのです。そしてそのことは、カエサルの執筆した当時のベストセラー“ガリア戦記”にも記述されているのです。塩野氏は述べています。アウグストゥスは、このガリア戦記を読んでいただろうが、読み取りが十分でなかったと。『著作の理解度とは、所詮それを読む人の資質に左右されずにはすまない』(文庫16巻p105)
 また・・・この政策から生じる様々な出来事が、将来にわたってティベリウスを悩ませることにもなっているように私は感じます・・・・・・。

 ともかく・・・この任務は、ドゥルースス(26歳)が担当します。一方ティベリウス(30歳)の任務は、ドナウ河防衛線の確立でした。『後代のウイーンやブタペストを基地化したりして、地味に、しかし着実にドナウ河以南の制圧を進めるティベリウスに対し、ドゥルーススのゲルマニア戦線は作戦からして派手だった。』(文庫15巻p173)エルベ河制圧行は明らかに、アウグストゥスの分をわきまえない行為でしたが、それでも、当時の戦果は華々しかったのです。そして紀元前9年の夏、ドゥルーススは、ついにエルベ河まで到達します。制圧行は順調でした、しかし、あくまでも『前段階は』、なのです。

 そして、その年の冬、不慮の事故が起こってしまいます。

 エルベ河からの帰途で、雪の中の行軍の最中にドゥルーススは落馬し、容態が悪化します。この知らせは、真っ先にドナウ河戦線にいるティベリウスに知らされます。『知らせを受けるや兄は騎兵の一隊のみを従え、冬の山野を駆けどおしに駆けて弟の宿営地に到着したのである。』(p196) そして、兄の腕のなかで、ドゥルーススは、29歳の若さで息を引き取ります。

 ドゥルースス軍の兵士たちは、すでにローマ化されたとして、遠征中に戦死した兵士たちも眠るこのゲルマニアの地に彼を葬ることを望んだのですが、ティベリウスはローマに連れ帰ることを譲りませんでした。彼は、この頃から心のどこかで、ゲルマンの地のローマ化に幾分かの疑いを抱いていたようです。 

  ティベリウスは弟の遺体とともにローマを目指します。そして途中の北イタリアのパヴィアで、皇帝アウグストゥスに遺体を引渡し、ライン河に引き返していきます。それは、司令官の死に乗じたゲルマン民族の反撃に備えるためでした。

仲のよかった弟の死は、ティベリウスの心に影を落とすことになってしまったことでしょう。そして妻との不仲、アウグストゥスとの確執、などなどが相まって、ついにティベリウスは“キレて”しまうのです・・・・・・。