ティベリウス語り 

5.壮年期(2) ロードス島での生活 と そのときのローマ

 

 ロードス島に引退しているときの彼の生活ですが・・・あまり詳しくは記述されていません。でも、『ティベリウスはロードス島で、学問に専念する優雅な日々を送っている。』という記述もあるので、きっとこの時期は、それなりに楽しく過ごしていたのではないかと思います。他の伝記を読んでも、学問もがんばり、地元のイベントにも参加するなどと楽しんでいる様子が描写されています。さらに、塩野氏が紹介している(文庫18巻p29)のですが、モムゼンの著書の中に、ローマ人で初めて、オリンピア競技会で優勝した人は、ティベリウス・クラウディウス・ネロであったと記されているのだそうです。紀元後1年、第195回のオリンピア競技会で、参加種目は、四頭立ての戦車競走。ローマ側にはこの記録はなく、一私人として参加したと思われます。『ティベリウス41歳の夏の一事件』(あれ?紀元後1年だと、43歳になるのですが・・・笑)
 四頭立ての戦車競走は、ローマ市民にも人気のスポーツのようです。なので、オリンピックだけでなく、市民が観戦する競技としても定着していたようです。戦車競走についての塩野氏の紹介を引用します。『四頭立ての華麗な造りの戦車を御しての競技なので、誰にでもやれるスポーツではない。経済的にも相当な出費を要するだけでなく、四頭の馬を共に御すに必要な高度な技能が求められる。それでローマでは、富裕階級に属し馬を御すのにも慣れ親しんだ者か、それともチームを組んでの営業かに二分された。現代ならば、フォーミュラ・ワンの試合に近い。』(文庫18巻p126)・・・というわけで、まあ、ティベリウスがお坊ちゃまだからこんな競技に参加できた、と言えなくもないですけど、でも人並みはずれた運動神経、また馬を御す技能の持主であったとも言えます。ついでに、ティベリウスの描写をここで引用すると、『身長は並よりは一段と高く、肩胸とも厚い頑強で均整のとれた体格、眼光は鋭いだけでなく視力も抜群、そして生まれてより病気知らずの健康の持主と評された・・・・・・ローマ人は葡萄酒を水や湯で割って飲むのが普通だが、ティベリウスはストレートでしかも相当な量を飲んだといわれるのも、体力が許したからだろう。』(18巻p29)
 ・・・と、まあ、文武両道で肉体的にも優れた超人みたいな人だった(と私は思っています)。これでもう少し人とうまくやれる性格だったらよかったでしょうに・・・。


 さて、その間のローマでは・・・
『“中継ぎ”に逃げられてしまっていたアウグストゥスは、もはや世襲を意味すること明らかな一事を、元老院に認めるよう求めた。それは、成年式を挙げたばかりの十五歳のガイウスが、五年先に確実に執政官に就任できるように、予定執政官になることの承認だった。』(文庫16巻p14)『アウグストゥスは、自分の血を引く孫で生後1年で早くも養子にしていた、このガイウスとルキウスの二人に、自分の後を託すことしか考えなかった。中継ぎに逃げられてしまった今となっては、この二人の立場を、なるべく早く確実にする必要がある。』しかし、この二人、はっきり言ってしまえば、『凡庸な出来の少年であった』のです。元老院議員たちにとっても、正直納得いくものではなかったようです・・・・・・。もうこうなってしまった時点で、アウグストゥスも“老害”にしかならなくなっているとおもいますけどね。自分も苦労していただろうに、広大な帝国の統治が、そんな簡単にいくものと思っていたのかと思うと非常に不思議です。やはり、身内のことになると眼が曇ってしまうのでしょうか。

 そして・・・アウグストゥスを悩ませた問題・・・それは、娘ユリアの醜聞・・・つまり、不倫でした。しかしこれは、『考えてみれば、アウグストゥスの“身から出た錆”でもあった。』のです。

 ユリアは、アウグストゥスとスクリボニアとの間に生まれた子でした。もちろん政略結婚でした。しかし、この結婚は、彼女の生まれる前に壊れてしまいます。相手方が協約を破ったから・・・だそうですが、リヴィアとの結婚もからんでいたことでしょう。『生まれて間もないユリアは、ほとんど父親からは忘れられた状態で、父から離縁された母の許で育った。アウグストゥスは、自分は娘を得たし妻のリヴィアも息子二人を産んだ身体では、自分と妻の間にも必ず子が生まれると信じていたからである。娘に関心を寄せるようになったのは、リヴィアからは子を期待できないとわかってからだった。』(文庫16巻p22)そして、『父アウグストゥスの血を引く子を産むことだけのために、言ってみれば“たらいまわし”にされたのである。』一人目の夫は、アウグストゥスの姉の息子、マルケルス。次はアグリッパ。そして、三人目がティベリウスです。

 ユリアがティベリウスと結婚させられ、夫婦仲もうまくいかなかったのは既に述べたとおりです。ティベリウスは離婚もせず一人、ロードス島に去ったのです。もし二人が離婚を望んでいたとしても、アウグストゥスがそれを許さなかったのでしょう。もし離婚できていれば、『ローマ社会の上流階級の女には無くもなかった、奔放な女としての悪評を浴びるだけですんだのである。』しかし、アウグストゥスは、“ユリウス正式婚姻法”(=離婚を、非合法ではないが良俗に反する社会的行為と断じている)を成立させていました。そしてさらに、彼は“ユリウス姦通罪・婚外交渉罪法”も成立させています。ということはつまり、娘ユリアの罪状は法的に明らかであり、彼はなんらかの対処をする必要に迫られたのです。 
 ユリアはパンダテリア島への流罪、そして不倫相手の多くも追放刑となりました。しかし、ただ一人、死刑を宣告された人がいます。それは、ユルス・アントニウス。アウグストゥスのかつての政敵アントニウスの息子です。彼は、逮捕を待たずに自死を選びます。

 塩野氏は、ユリアを責めてはいません。むしろ、アウグストゥスの妄執の犠牲者としてとらえておられると思います。もうすこし、ユリアの記述を紹介します。
 『・・・アウグストゥスとの間で起きた軍略上の意見の衝突などは、市井の人は知らない。妻ユリアとの不仲が原因と思い込んでいる人々にとっては、ユリアは、夫に捨てられた女でしかなかったのである。しかもティベリウスは、離婚も求めず、別居という形で捨てたのであった。息子ティベリウスの公生活放棄は妻ユリアに原因があると思い込んでいる点では、姑のリヴィアとて、市井の人々と同じであったろう。・・・リヴィアのユリアに対する態度には、以前の冷淡に憎しみさえ加わったとは、十分に想像可能だ。・・・離婚もされずにただ捨てられた妻は、リヴィアが取り仕切る家の内でも、人々の好奇の眼が集まる家の外でも、いたたまれない空気の中で生きるしかなかったのである。子供たちを育てるのに専念していれば少しは人の見る眼も変わったろうが、ユリアには、この種の自己コントロールが欠けていた。』・・・そして、結局不倫がひどくなってしまったようです。
 そして、ユルスとの仲について。『この人物とユリアの間は、ただの不倫関係ではなかったのではないかと思えてならない。まず、二人とも若くはない。ユルス・アントニウスは、50は明らかに越えていた。ユリアのほうは、37歳になっている。そして二人とも、アウグストゥスが倒した敵の血を引いていることでも同じだった。今では勝者アウグストゥスの側の人間になってはいても、彼ら二人にとってより縁の深いのは、アントニウスでありポンペイウスであって、アウグストゥスではない。その二人の間に、互いの痛みを分かち合う感じの愛情が生まれたと思うのは、想像のしすぎであろうか。』

 私もやはり、ユリアもティベリウスと同様に、アウグストゥスの犠牲者なのだと思います。