ティベリウス語り

5−2.アウグストゥスの後継者(ちょっと番外っぽい?)


 ティベリウス復帰を述べるにはまず、後継ぎ候補のガイウスくんの行状に触れないと話が通じないように思います。なのでもうちょっと、ティベリウス留守中のお話を続けさせてください・・・。

 ユリアの行状を恥じたためか、人前に出るのもはばかっていたアウグストゥスに、元老院はこのころ“国家の父”の称号を贈ることにしたようです。市民からの人気は相変わらず絶大。多くの市民は、家族の不祥事に打ちのめされて(?)いたアウグストゥスとその家族の幸せを願っていたとか。
 後継ぎ問題では妄執が目立つアウグストゥスでしたが、60歳台になっても“政治家”として必要な資質は持ち続けていました。塩野氏によりますと、その資質とは“見たいと欲しない現実までも見据える冷徹な認識力”“持続力”“適度の楽観性”“バランス感覚”の4つだそうです。(でも、こと跡継ぎ問題に関しては、認識力は本当にあったのか、とも思いますが・・・しつこくてすみません)しかし、実際の帝国運営に関しては『彼の意を体して動けるだけの能力をもった協力者を欠いていた』のが現実。彼にかかるストレスやプレッシャーは想像を絶するものだったのでしょう。しかし・・・まあ、これも当然の帰結ではないかとも思います。後継ぎには自分の身内しか目に入っていなかったわけですから、広く人材を掘り起こして抜擢するなんてことはあまりなかったのかなあ、と想像します。どこかで塩野氏がちょこっと触れてたと思うのですが・・・才能の無い人がこの時代にいなかったわけではなく、アウグストゥスは、人の才能を見抜き、育てる資質が欠けていたのではないかと疑ってしまいます。

 そしてこの頃・・・『これまで20年間安泰だった帝国の東方が、この時期になってにわかに雲行きが怪しく変わっていた』(文庫16巻p34)のです。一つは、ヘロデ大王の死によるユダヤ王国の内紛、もうひとつはアルメニア王国のお家騒動。アルメニア王国は、仮想敵国パルティアの抑止力として重要な位置を占めていましたので、この国を“親ローマ”にひきつけて置くことは非常に重要視されていたのです。
 かつて、21歳当時のティベリウスはアルメニアに進軍して親ローマの国王を就け、パルティアとの講和条約締結を成功させましたが・・・今回、東方問題の対処を任されたのは、19歳になっていたアウグストゥスの孫にして養子のガイウスです。『軍事力だけでは解決しない、かといって外交能力だけでも解決できない、困難で微妙な任務である。託すにふさわしい地位にある人が他にいなかったのも事実だが、60代に入っていたアウグストゥスは、彼でもやはり孫への祖父の情から自由でなく、ためにこの若者に課題な期待を寄せたのではないか』(同p36)・・・と塩野氏が述べているのですから・・・結果は想像できます。一応、執政官経験者ロリウスをお目付け役でつけて派遣したのですが・・・。
 ガイウスは、鳴りもの入り東方へ向けて出発しました・・・。途中の各都市では大歓迎の祝典や招宴の連続で、彼はすっかり舞い上がってしまったようです。『途中で立ち寄ったサモス島では、引退中のティベリウスがわざわざロードス島から出向いて向かえるという、年長者を重んずるローマ人にしては破格の厚遇も受けた。これもまた、若き皇位継承者の勢威を人々に印象づけるに役立った。貴族的なティベリウスにしてみれば、礼儀をつくしたに過ぎなかったのだが。』また、G.P.Bakerは、このときティベリウスがガイウスの無能さを完璧に理解し、能力のない人間が権力を持つことに危機感をもったことを述べてます。
 その後、ガイウスは用もないのエジプトに立ち寄ったりして『ようやく目的地のシリア属州についた頃には2年を空費していた』のです。しかし、顧問のロリウスが任務をきちんと遂行していたため、とりあえずは大事には至らなかった模様です。ユダヤには静観の態度を持続するとし、パルティア・アルメニア問題も外交での解決を選んだようです。紀元2年、ローマ・パルティア間の友好を再確認する調印式は、ティベリウスがかつて調印式に臨んだのと同じ、ユーフラテス河に浮かぶ小島で行われました。この後ガイウスは、最終目的地のアルメニアに向かいます。

 実はこの年、もう一人の後継ぎ候補であった、ガイウスの弟ルキウスが、スペインで死んでいました。アウグストゥスにとっては『強烈な打撃であったろう』。だからこそ、ガイウスの一応の成功の知らせには、アウグストゥスは希望を取り戻したようです。
 また、この同じ年に、ティベリウスはアウグストゥスに、ローマに戻る許しを請う手紙を送っていました。先妻ヴィプサーニアとの間に出来た息子ドゥルーススの青年式に立ち会いたいというのが理由です。これに対してアウグストゥスは『実に冷淡に応ずる』のです。アウグストゥスは、一私人の立場を厳守することを条件に、ティベリウスの帰国を許しました。

 さてさて、その後のガイウスですが・・・パルティアの策略にひっかかったガイウスや、彼からの報告を聞いたアウグストゥスの優柔不断な態度が原因で、お目付け役ロリウスは自死してしまいます。『お目付け役から解放されたガイウスの行動の支離滅裂さが誰の眼にも明らかになったのは、翌・紀元3年からのアルメニア遠征行』だそうで、彼の振る舞いが原因でアルメニアでは暴動まで起こり、『「保護者ローマ」に対するアルメニア側の信頼は地に落ちて』しまいます。そして、ローマはアルメニア王国への影響力を失いました。
 ただし、塩野氏はただ、ガイウスを責めているわけではありません。『アウグストゥスの平和外交方式は、それ自体では賞められてよいやり方ではある。だが、中近東諸国の民には、力によってしか影響力は行使できないのだ。アルメニアとの外交の失敗は、若いガイウスの無能によるばかりでもなかった。』のだそうです。・・・無能なことは確かなようですが(笑)
 アルメニアでの暴動鎮圧では怪我を負い、外交では失敗し、ガイウスは相当落ち込んだようです。『軍団まで放り出したガイウスは、ローマの祖父に手紙を送り、一私人として引退したいと願った。』・・・義父ティベリウスの真似でもしたつもりなんでしょうか・・・(苦笑)。そして『これを引きとめるのに苦労するアウグストゥスの手紙は、厳正な上位者のものではなく孫を甘やかす祖父のものでしかなかった。』・・・ああもう。(ティベリウスのときは激怒したくせに・・・・・・。)やっぱり、こと身内に関しては、アウグストゥスはほんとに馬鹿者だと思います・・・。
 結局、当ても無く各地をふらふらしていたガイウスは、紀元4年の2月20日に、小アジア南西部リチアで死んでしまいます。暴動の際に負った傷が原因だったらしいです。
 
 『アウグストゥスは、66歳になって、自分の血を引く後継者候補のすべてを失ったのであった。』・・・ざま〜みろ!と思ってしまう私は、相当人格が歪んでいるのでしょうか・・・・・・。