ティベリウス語り

7.ゲルマニア戦役、パンノニア・ダルマティア戦役


 最初は書くのをやめようかとも思ったのですが・・・やっぱり、ティベリウスが歓迎されるという、なかなかない場面なので・・・パテルコルスによるティベリウス復帰時のエピソードから紹介したいと思います。その後、戦役でのティベリウスの活躍を追っていきます。

 ゲルマニア戦役にティベリウスが復帰したときの、塩野さんが引用しているパテルコルスのエピソードは、以下の通りです。『自分たちのまえに姿をあらわした彼を見て、兵士たちは喜びのあまりに泣き出したのだった。そして誰もが、隊列が乱れるのもかまわずにティベリウスに走り寄り、口々に喜びを述べ、その手にふれようとさえするする様子は、規律の厳しさで知られたローマ軍団では見られない光景だった。』(文庫16巻p51)そして、その喜びの言葉とは・・・「夢ではないのでしょうね、総司令官、われわれが再びあなたの指揮下で闘えるなんて」「わたしはあなたのしたにいたのですよ、総司令官、アルメニアのときです」・・・などなど。
 内向的であった、とはいっても、ちゃんと部下から慕われていた総司令官だったのだ、と思うとなんだかとても嬉しくなります。パテルコルスの表現に誇張はあるかもしれませんが、このようにティベリウスに好意的な記録を残してくれるひとがいた、それだけでも本当に救われます・・・。

 そしてこの戦役では、弟ドゥルーススの息子で、アウグストゥスの命により養子に迎え入れた、ゲルマニクスが参加していたそうです。このとき18歳、初陣です。ゲルマニクスとは、ゲルマニアを征服したひと、という意味で、最初にゲルマニア戦役を担当しながら死んでしまった父ドゥルーススの死後の綽名を受け継いだ呼び名です。ティベリウスは、彼に2年間の参謀本部勤務を課しましたが、これは将来の総司令官への、一種の帝王教育のようです。

 ゲルマニア戦役は、事実上10年余りもの間放置されていたのです。ですから、制圧行は、ライン河というスタート地点からもういちど始めなければならなかったのです。そして、この戦役の目標は、アウグストゥスが望んだように、帝国の防衛線をエルベ河に移すこと、でした。
 1年目の紀元4年の戦役は、12月までかかりましたが完璧な成功でした。ティベリウスはローマでアウグストゥスへの報告を終え、冬営基地にとんぼ返りします。そして、翌紀元5年はさらに華々しい戦果を挙げ、ついにローマ軍は再びエルベ河に到達したのです。『ゲルマン民族をローマ帝国内に取りこむというアウグストゥスの夢は、もはや達成されたかにみえた。』(p56) 指揮官としては、ティベリウスは(アウグストゥスの右腕だった)アグリッパ以上、と称えられるのもうなづけます・・・♪

 その頃、マルコマンニ族というゲルマンの部族が、マロボドゥヌスという指導者のもと、移住したボヘミアで勢力を拡大していました。このマルボドゥヌスは、ローマに敗れたあと人質としてローマで生活していたため、ローマを熟知した数少ないゲルマン民族の人間でした。このため、ローマと戦うより移住することで部族の存続を図ったのです。移住したのは、ドゥルーススがエルベ河に達した、紀元前9年前後だったらしいです。彼は軍隊もローマ式に組織して、かなりの大戦力を手にしていたようですが、それでもローマと正面対決する気はなかったそうです。しかし、やがてローマに不満を持つ周辺部族の逃げ込み先になってしまい、『マロボドゥヌスの意図にかかわらず』この地域がローマにとっては危険な状態になってしまっていました。
 それで、アウグストゥスは、紀元6年、ゲルマニア制覇は成ったと判断し、このマルコマンニ族攻略を決意して、ティベリウスをその最高司令官に指名します。これを受けたティベリウスは、春の進攻に向けドナウ河近くで冬営していました。しかし、このときに予想しなかったことが・・・。それは、この進攻の背後にあたるパンノニアとダルマティアでの大規模な反乱でした。

 パンノニア、ダルマティアはもともと、ティベリウスが家出する前に制覇した地方でした。ローマの防衛は、主戦力のローマ市民で構成される軍団兵と、ほぼ同数の現地人が補助兵として参加するシステムでしたから、反乱軍たちも、ローマ式戦闘を会得していました。しかも、この地方が敵の手に落ちてしまえば、『アドリア海を隔てるだけのイタリア半島は直接的にさらされることになる」のです。
 このときばかりはアウグストゥスも動揺したようで、元老院に緊急対策を訴えます。元老院は、兵士の緊急募集などを決議、ティベリウスを反乱軍鎮圧のローマ軍最高責任者に任命するようアウグストゥスに求め、アウグストゥスはこれを受けます。これで、ティベリウスは、この戦役での“絶対指揮権”を手にしたことになりました。
 そして『48歳になっていたティベリウスは、手にした「絶対指揮権」を活用する』(p64)のです。もともと攻め込む相手であったマロボドゥヌスと連絡をとり、もしくは密かに会談し、何と友好条約を締結するのです。塩野さんによると、『ティベリウスとマロボドゥヌスは同年代であったというから、アウグストゥスの縁者の家が人質時代のホームステイ先であったこのゲルマン人とティベリウスとは、少年時代の学友仲間であったのかもしれない』・・・ティベリウスもちゃんと生かせるだけの人脈を持っている、っていうことも嬉しく思います!

 背後の心配をしなくてすむようになり、またトラキアからの騎兵の援軍もあり、いよいよティベリウスは反乱軍鎮圧を開始します。『各地で繰り広げられた戦闘は、死にもの狂いの反乱軍を迎えて、凄惨・残虐な様相がエスカレートする一方になった。ローマ兵も、捕われれば即惨殺であることを肝に銘ずるしかなかった』(p67)・・・話がそれますが、こういう体験をしているからこそ、ティベリウスは見世物の剣闘士試合が好きになれなかったのだと思います・・・。

 そうこうしているうちに、あわてた(?笑)アウグストゥスが募集して編成された援軍が、続々と到着しました。総計で15万以上とも。これで、敵の20万人を越える反乱軍と、『数ならば五分五分で対決できるようになった』。でも、ティベリウスはすごいのです。『ここで、48歳のティベリウスは、たぐいまれな実戦の指揮官であることを示すことになる。』のだそうです♪塩野さんは丁寧に解説してくださっていますが、長くなるので省きますが、要は、『数は増えはしたものの、足手まといに変わる怖れのある兵たちが多かったのだ。彼らの全員を投入していては、犠牲者の数が増えるだけだった。』ということのようです。一方、ローマ軍においては、『犠牲者の数をなるべく少なく押さえることは、総司令官の力量を計る第一の条件』なのだそうです。
 ということで、『ティベリウスは、到着した援兵の大半を返すことにした』のです。『見栄よりも実質を重視したのは、派手なことを嫌う彼らしかった。』しかも、ただ戻れと命じたわけではなく、行軍の疲れを癒すために休ませ、帰途の安全を保障するために護衛の騎兵団までつけて、本国との国境まで送り届けたのだそうです。戦いの最中のことです。ものすごい苦労だと思います・・・。でもなお、ティベリウスはこのほうが『良策と判断した』のでしょう。
 結局ティベリウスの手元にのこったのは、6万前後の兵力ではないかと塩野さんは述べてます。敵の1/3以下です。でも、精鋭の集団ではあったそうです。
 
 ここから、戦役のエピソードが続きます。『ティベリウスは、闘いにくい地勢で死にもの狂いで向ってくる敵を相手としなければならない部下たちを、実に大切にあつかった。』(p69)戦死者は一人として放置されることは無く、身分に関わらずローマ式葬礼が行われ、負傷者には最高司令官付き医師を中心に組織された医師団が治療にあたり、最高司令官用の馬車も輿も負傷者の運搬に使用されていたそうです。ティベリウス自身はずっと馬に乗り続け、食事も座って行い(現在の立って食事をするイメージ)休息も犠牲にしていました。さらに最高司令官用入浴設備も負傷者に提供され、最高司令官用料理人たちも負傷者の食事作りを受け持ったのだそうです。(兵士は基本的に自分の食事は自分でつくるのだそうです)・・・それにしても、ローマ人(司令官だけかもしれませんが)って、戦地でも風呂に入るんですね。改めて感心してみたり・・・。
 『自らも負傷してティベリウスの輿を使わせてもらったというパテルコルスは、このときの前線で欠けていたものは、わが家とわが家族のみで、他に欠けるものはまったくなかったと証言している』しかも、『自らに厳しい人は他者に対しても厳しく接しがちだが、パテルコルスによれば、戦場でのティベリウスはそうではなかたという。』命がけの闘いですが・・・このときのティベリウスはきっと、孤独ではなかったに違いありません。

 そして、戦役3年目の紀元9年に入る前には、戦線の行方がはっきりと見通せるまでになったそうです。そして9年の夏には、パンノニア全土がローマ軍に屈し、ダルマティアも冬には講和を求めてきました。この戦役により、『ドナウ河にいたる地方全域へのローマの派遣をより確実にしたことになった』のです。

 

 

2008.03.27