ティベリウス語り

8.戦役の結末とアウグストゥスの死


 また、ティベリウス周辺の状況のお話からです・・・。

 ダルマティア、パンノニア戦線が始まった紀元7年には、本来ならば、ユリアとアグリッパの息子であり、ティベリウスと同時にアウグストゥスの養子となっていたアグリッパ・ポストゥムスが、初陣として参加していてもおかしくない年になっていました。でも、『祖父は、孫を戦線に送らなかった。いや、送り出すことができなかった。』(文庫16巻p74)細かなことは述べられていませんが、『皇帝の孫の凶暴な振舞が誰の手にも負えなくなった紀元7年、祖父で養父でもあるアウグストゥスがこの孫を送った先は、パンノニアの戦場ではなく、後にナポレオンの最初の流刑地として有名になるエルバ島の南14キロの海上に浮ぶ、プラネシア(現ピアノーザ)島であった。』ということのようです。さらに、もう一人の孫であるユリアも、母と同じ『奔放すぎる男女関係』のために島流しにしてしまいます。このときに、“アルス・アマトリア”作者の詩人、オヴィディウスも流罪になったそうです・・・。
 ・・・こうしてみると、アウグストゥスの直系は、ほんとにロクなのがいません!!・・・が、まだ自分の血縁に執着し続けるアウグストゥスは、唯一、一応まともに育っていたアグリッピーナ(思えばティベリウスのかつての愛妻と異母姉妹ですよ・・・)をゲルマニクスと結婚させます。・・・でもこのアグリッピーナも曲者です、私的には。・・・本当にアウグストゥスにはあきれてしまいます・・・。塩野さんも述べています。『持続する意志自体は、賞められてしかるべき性向である。だがそれが、血の継続にここまで執着する様を見せられると、もはや「執着」よりも「執念」であり、さらに執念を超えて「妄執」にさえ映る。妄執は、悲劇しか生まないのだ。古代の人々の考えでは、あくまでも運命を自分の思いどおりにしようとする態度は謙虚を忘れさせ、それゆえに神々に復習されるからであった。』(16巻p76)

 まあ、ともかく・・・パンノニア・ダルマティアは完全に制圧されますが、その知らせがいち早くアウグストゥスにもたらされたわずか数日後、ゲルマニアからの惨事の知らせがもたらされました。それは、ゲルマン人で補助部隊の騎兵隊長にまでなり、ローマ市民権も与えられていたアルミニウスの策略により、属州総督ヴァルスと総勢3万5千人、3個軍団が壊滅したのというものでした。
 この原因については、塩野さんが詳細に考察されているのですが・・・ぶっちゃけていうと、アウグストゥスの失策ってことのようです。・・・せっかくティベリウスが制覇したゲルマンの地でしたが、ティベリウスの後を受けてのヴァルスによる統治の仕方は、未開の地にはそぐわないものになっていたようです。もちろん、ヴァルス本人の技量もあるのですが、統治方針はアウグストゥスが決めたものですから、アウグストゥスの力量不足といわざるを得ないのです。
 
 この知らせを受けたローマは、パンノニア・ダルマティアの平定を終えたばかりのティベリウスをライン河畔に送ります。それは、勢いづいたゲルマン民族が、ライン河沿いの軍団基地を大挙して攻撃してくることを懸念したためです。しかし、それは起こりませんでした。アルミニウスは、リーダーとしての資質が十分でなかったようで、多くの部族をまとめあげてローマに対抗することが、結果としてできなかったのです。

 ですから、このときにしかるべき手を打っていれば、ゲルマンの地におけるローマの覇権を取り戻すことは可能だったはずなのです。3個軍団を補充し、改めて完全制覇を成し遂げればよかったのです。しかし、それはなされませんでした。
 塩野さんの考察によると・・・ですが、実戦の経験もほとんどなく、軍事面の才能のないアウグストゥスは、その決心もできず、かといって、ライン河まで撤退してそこで守りを固めるという決断もできなかったのです。そして、この時期のアウグストゥスは、そのようなことを相談できる相手もいません。アグリッパは既に死んでいました。そして、『軍事面での才能はアグリッパ以上と言われても、ティベリウスにはやはり、養子に迎えられるまでの経緯からも遠慮があった。(中略)戦略はアウグストゥスが決めるので、ティベリウスが決断できるのは戦術でしかない。』

 しかし、この後が笑えます。今や頼れる人はティベリウスだけとなったアウグストゥスが、ティベリウスに送ったという手紙の内容がいくつか紹介されています。塩野さんは、以下のように好意的に評価されています。『ゲルマニア問題の解決への決断を下すのに迷いはしても、アウグストゥスは、ゲルマニア戦線を一人で背負っているティベリウスの労苦は充分に理解していた。(中略)老齢になってはじめてアウグストゥスが、ティベリウスに心を開き、ティベリウスの労苦に率直に感謝を示し、そのティベリウスを愛するまでに至った心境の変化を読み取ることができる。』『この時期、74歳と53歳を結びつけたのは、上に立つものの責任感であったろう。アウグストゥスは、ティベリウスの責任感を愛したのだと思う』しかし・・・私の感想は・・・何だかねえ、ってとこですかね。虫がよすぎるというかなんというか。だったら、遺書に“孫が死んだので(仕方なく)・・・”みたいなこと書くなって!・・・と思います。
 でも、せっかくですから、このわらっちゃう手紙の文面をひとつだけ引用します。なぜなら、イーリアスの一節が引用されているから♪
「親愛なるわたしのティベリウス、慎重に充分に考えねばならない問題に突き当っているときや、わたしの政策があからさまな反対に出会ったときは、神々に誓うが、きみがそばにいて相談できたらと切に思う。そして、ホメロスのあの一句を思い出すのだ。『もしもあの人が一緒なら、たとえ燃えさかる炎の中からでも、二人でともに脱け出せもできよう。なぜなら、あの人の読みの深さは、他に類をみないのだから』」(p101)

・・・こんな一句あったっけ〜、とは、ヘクトル以外に興味のない(笑)私の感想。塩野さん曰く、トロイ陣営に攻め込むことになったディオメデスが、共にいくオデュッセウスを評した一句とか。・・・ティベリウスはオデュッセウスですか〜〜???・・・私のイメージは違うんだけどなあ(笑)

 でも、アウグストゥスが決断をしていないことに変わりはありません。すると、ティベリウスも決定的な行動はとれず、紀元10〜12年の間にやったことは、『ライン河沿いの防衛施設を完備したことと、ほとんどデモンストレーションの感じでくり返した、ゲルマニアへの進攻だけだった。』・・・でも、考えようによっては、
時間を無駄にしない、仕事のできる人らしい行動だと思います・・・。そして紀元13年、アウグストゥスはティベリウスに最高指令権を与え、ゲルマニア戦線はゲルマニクスに任されることになりました。アウグストゥスは、ゲルマニアのローマ化は信じて疑わなかったでしょうから・・・自分の血筋をひくゲルマニクスに“成果”を上げさせたかったのかと・・・ちょっと穿った見方をすると、思っちゃいます。

 その後のゲルマニア戦線についても、この巻で大まかに述べられています。皇帝になったティベリウスは、目立たぬようにゲルマニアから撤退します。また、アルミニウスとの戦闘に破れたマロボドゥヌスをローマに受け入れ、ラヴェンナでの住居と生活費を保証します。彼が死んだのは、亡命してから18年後の紀元35年だそうです。
 一方、アルミニウスのほうはゲルマニクスのローマ軍や、ゲルマンの他部族との戦いの後、紀元21年に死んでいます。塩野さん曰く、『ローマ軍が撤退したにかかわらず部族間の争いで殺しあうゲルマン民族を、ローマ人がライン河から静観するという時代がはじまったのである。』(p109)

 塩野さんによると、このゲルマン進攻は、アウグストゥスの数少ない失策の一つといえるようです。カエサルのベストセラー“ガリア戦記”には、ゲルマンへの深入を断念する理由が述べられていますが、この読み取りが不十分であるがゆえに、理解できなかったのだろうと。(ちなみにティベリウスは、理解していたと思われます♪)所詮、『文官が机の上で地図だけを相手に練り上げた戦略』だったのです。


 さて、紀元14年には、アウグストゥスと、共同統治者ティベリウスの連盟で国勢調査が行われたそうです。ローマ市民権所有者は順調に増加しており、『「パクス・ロマーナ」(ローマによる平和)を目標にかかげた、アウグストゥスによる共和政から帝政への移行は、言い換えれば、高度成長期から安定成長期は、確かな現実になりつつあったのである。』

 そしてその年の夏、南イタリアで仕事をこなしながら夏休みを楽しんでいたアウグストゥスは、パンノニアとダルマティアの再編成に向うティベリウスをベネヴェントで見送った後、ノーラ
にて容態が急変します。ティベリウスは呼び戻され、死の床に伏したアウグストゥスと長い時間語り合ったといいます。しかし、その中身は知られてはいないとのことです。いくつかの資料では、アウグストゥスがティベリウスを非難するような発言があったようなことが書かれていますが・・・できればこれは信じたくはないです・・・。(でも、遺書をみるよやっぱりそうなのかなあ・・・)
 この日からまもなく、『アウグストゥスは、妻リヴィアの腕の中で死を迎えた。彼が終生強く望んでいた、おだやかで静かな死であった。紀元14年8月19日、1ヶ月もすれば、77歳を迎えるところだった』(p115)
 それは・・・ティベリウスの新たな苦難の始まりでもあるのです。

 

 

2008.6.6