2日目(29日) (その1)

** この日の観光コース **

アヤソフィア 〜ガラタ橋 〜 エジプシャンバザール〜昼食(シルケジ駅)〜
グランドバザール 〜 ハマム(トルコ風風呂)体験 〜 ベリーダンスショー




朝は雨。ですが、アヤソフィア観光が終わる頃には止んで、その後はぱあっと晴れ上がりました!
長くなるので、まずはアヤソフィアで1ページ。




☆ アヤソフィア(Ayasofya)
 

     
 

 ビサンチン時代にキリスト教会堂として建てられましたが、2度の火災に合い、さらにイスタンブールを征服したメフメット2世の命によりモスクに改修されてしまいます。その後 トルコ独立の際、トルコ建国の父アタテュルクは、ここを無宗教の博物館としました。この数奇な運命は、イスタンブールの歴史そのもの・・・という感じですね。
(この写真は、1日目に撮ったものです。)
 ミナレットの形が異なるのは、建てたのが違うスルタンだったから、だそうです。このうち2本が、メフメット2世が建てたものです。

 最初の聖堂は、360年にコンスタンティヌス2世により奉献されました。おそらくコンスタンティヌス大帝の治下326年に建築が始められ、奉献は息子が行ったと、現地で購入した資料には記されています。教会の正式名称は、エクレシア大聖堂だったそうです。ソフィアとは、神のみ言葉、神の叡智を表す言葉として5世紀に流行したらしく、いつしかこの名で呼ばれるようになったようですね。
 404年、宮廷や上流階級を批判したクリストストムス総主教が追放された際に、彼の支持者たちが聖堂に火を放ち、聖堂は焼失。再建はテオドシウス2世により行われ、415年に落成奉献されました。
 しかしながら、またこの聖堂は災難にあうことになります。532年、ニカの乱で、再び焼け落ちてしまったのです。その直後からユニティアヌス1世により再建工事は始まり、何とたった6年後の537年に完成します。(パリのノートルダム寺院は180年、ロンドンの聖ポール寺院は35年かかったそうです)それから、コンスタンティノープルがトルコ人の手に陥落するまで、このアヤソフィアはビサンチン帝国の主聖堂として重要な役割を果たすことになりました。ですが、それからも震災にあったり、十字軍の略奪にあったりと災難続きだったようです。(何で同じキリスト教徒なのにそんなことがおきてしまうのか・・・)
 そして、1453年、コンスタンティノープルを攻略したメフメット2世により、アヤソフィアはモスクに改装されました。これこそが、イスラム教徒にとっては、キリスト教に対する勝利のしるし・・・なのです。モザイクは漆喰で塗りこめられてしまい、十字架は三日月にとって変えられ、祭壇や鐘楼なども取り外され、変わりにミフラブやミンベルなどが設置されました。ただし、モザイクの破壊はほとんどしていません。建物の修理の際に、一度モザイクを取り外して洗浄し、再び漆喰で塗り固めたりもしているのです。 
 トルコが共和国となった1934年(もしくは1935年?)、トルコ建国の父、アタテュルクによってアヤソフィアは博物館として解放され、その後漆喰が取り除かれてモザイクも蘇りました。むしろ、漆喰で覆われていたからこそ、保存状態もよかったのかもしれません。

 ガイドさんによると、今でも、アヤソフィアをキリスト教聖堂に、またはモスクに戻そうという運動があるそうです。でも、このまま博物館として全人類の宝とするのが一番いいと思う、とガイドさんはおっしゃってました。


  さあ、紹介が長くなりましたが、いよいよアヤソフィアの中へ。最初に迎えてくれたのは、内拝廊の皇帝の門の上にある、このモザイク。 キリストと賢帝レオVI世 です。これは9世紀後期のものらしいです。本には・・・手足の格好や体つき、顔の出来が悪いと酷評されています。しかし、このモザイク、下から眺めたときに美しくみえるように、テッセラ(金箔のガラスキューブ)が30度傾けて埋め込んであるそうです。

 


 左の写真は内拝廊の天井。右の端っこに上のモザイクが少しだけ写ってます(笑)。そして右の写真は、皇帝の門を内陣側から見たものです。


 
そして、お約束のドームの天井(笑)。修繕中のようで、こんな風になっちゃってますが・・・。中心にはアラビア文字でコーラン第24章の一節が書かれているのだそうです。(模様にしか見えませんけど・・・)一方、四隅には天使が。キリスト教とイスラム教が同居してます・・・。
 ドームは、軽く仕上げるために、ロードス島(ティベリウスが隠棲していたところですね〜♪)で焼かれた特殊なレンガで作られています。重さは通常のレンガの1/10だそうで・・・。




 正面(後陣)をナナメからみたところ。半円の天井には 聖母子像 が。両脇のアラビア文字の書かれた円盤は、右がアラーの神、左が預言者マホメットをあらわしているそうです。そして、写真の下正面にあるのはミフラブ。ブルーモスクにもありましたが、メッカの方向を示しています。聖堂の向きは真東、そしてメッカの方向は南東なので、ミフラブは正面方向からややズレた方向に設置されています。左側のバルコニーのように見える部屋は、スルタンのためのもの。

 

それぞれの全体や拡大写真も載せておきます。 まずは聖母子像とマホメットの名が記された円盤。あ、少しピンボケですね・・・(笑)

 


 左から スルタンの部屋 ミフラブ ミンベル 。ミフラブの両脇に見える大きな燭台はスレイマン大帝のハンガリー遠征の際にブダ(ブタペスト?)のカテドラルから持ってきたもので、スルタンスレイマンとイスラムを称える銘が刻まれています。

   


 ユニティアヌス帝は、各地の異教の神殿を破壊し、アヤソフィア再建の建材として使用したそうです。身廊の左右に並ぶ緑色の円柱(下の写真は左側)は蛇灰岩の一枚板だそうで、古代世界の七不思議の一つといわれたエフェソスのアルテミス神殿から運ばれたという説があるのだそうです。・・・ですが、実は、テッサリア産、なんですって。  


 そして、この大きな壷。私の身長くらいはあったような。回廊の左右に置かれている、 ペルガマの壷 と呼ばれているものです。これはムラト3世の時代にペルガモンから運び込まれたものだそうで、スルタン用の清めの水が入っていたそうです。
 あと、この近くには、“汗っかきコロム(柱)”と呼ばれる柱があります。ご利益があると多くの人が触るので、とうとう穴があいてしまったそうです。現在も、ここに親指を入れて手を一回りさせると願いがかなうと言われているそうで、トライする人が後を絶ちません。私ももちろんチャレ〜ンジ!子宝に恵まれる、って話もあるらしいので・・・♪(笑)



 さあ、いよいよ2階のテラスに上がります。階段ではなく、坂道になっています。これは、エラい人が馬、もしくは輿にのったままで移動するためのようです。通路はこんな感じ。馬でも滑りそう(笑)
 2階テラスは、初期には女性たちの場であったようですが、後に皇室専用の場となり、聖職者の会合などにも用いられるようになりました。数々のモザイクで彩られているのもそのためでしょう。そしてモスクになってからは再び、男性と一緒に祈りを捧げることのできない女性のための礼拝スペースとして用いられていたようです。




 こちらは、聖堂の後ろ側にある、正面に向うテラス。その中央はこのような特別な飾りがしつらえてあります。ここは、女性たちのトップ、すなわち皇后が祈りを捧げるための席です。

    

 続いては、モザイクの紹介です・・・。これは、私が最も美しいと思ったモザイク、 ディーシス(請願図) 。13世紀後半か、14世紀前半の作品だそうです。場所は南ギャラリー中央格間。
 キリストの頬の微妙な色合いと凛とした表情など、あまりの美しさにため息がでます。クリスチャンならずとも、思わず手を合わせたくなるような・・・本当に素晴らしいモザイクです。残念ながら破損がひどいですが。

  


  これは、南ギャラリー奥にある 全能のキリスト、皇后ゾエ、コンスタンティヌスIXモノマコス 。11世紀中期〜12世紀初期の作品。皇女ゾエ(1028-50)は、ロマヌスIII世(1028-34)、ミハイルIV世(1034-41)、コンスタンチンIX世モノマコス(1042-55) の、3人の皇帝を夫としたそうです。そして、このモザイクも数奇な運命をたどっています・・・。ミハイルIV世に変わったときには、夫婦共に顔が描き換えられ、その後、つかの間の皇帝となった、ミハイルV世は、敵であったミハイルIV世とゾエの顔をつぶします。その後復元されたときには、二人の顔とともに、キリストのモザイクも描きなおしたのだそうです。そして最後に、モノマコスと結婚した際には、夫の顔が描き変えられたのだとか 。やけにゾエだけは若いってのが笑えます。

 



 こちらも同じく、南ギャラリー奥にある、 聖母子と皇帝ヨハネスII世コムネノス、皇后イレーネ 。ヨハネスII世コムネノス(1118〜43)が即位した1118年の作と考えられるのだそうです。聖母マリアはとても美しく神々しい感じ。



 この大理石の扉は、 天国と地獄の門 と呼ばれています。これはオリジナルの建物にはなく、後の時代に設置されたものだそうですが、その時代も目的もわからないのだそうです。

 



 これは、だまし絵、みたいなものですかね。建物の構造上、左側に窓が作れなかったので、バランスをとる為に窓の絵が描かれたそうです。

 
    

    最後のモザイク。これは、 ユニティアヌスとコンスタンティヌスに囲まれた聖母子 。10世紀後期の作品で、内拝廊南車寄せの門の上にあります。皇帝コンスタンティヌスがコンスタンティノープルの町の模型(城壁)を、ユニティアヌスがアヤソフィア聖堂の模型を聖母子に献上している図です。

 

 このモザイクの反対側には鏡がセットされていて、モザイクがよく見えるようになっています。この鏡の手前の鉄の大扉は、タルソスまたはアレクサンドリアから運ばれたものなのだそうです。

 




アヤソフィアの観光が終わる頃には、空も青くなりました。空気も清清しい・・・!


おまけ:アヤソフィアの外にいたネコ♪

 



この日の観光はまだ続きます・・・→  (その2)


2008.09.15