5日目(11日)

** この日の観光コース **

モーゼの噴水 〜 共和国広場 〜 アッピア街道など(アルケオバス) 
〜 サンタ・マリア・イン・コスメディン教会(アルケオバスツアーの途中) 〜 クラウディア水道橋 〜 パンテオン 
〜 ナヴォーナ広場 〜 マルクス・アウレリウスの記念柱

ホテルから歩いてテルミニ駅へ。そして、アルケオバスに乗り込み、クラウディア水道橋に向かうつもりが・・・
このバス、水道橋には行かないと!!? え〜ガイドブックに出ていたのと違う・・・(涙)
仕方がないので、改めて地下鉄で水道橋に向かいました。


☆ モーゼの噴水(Fontana del Mose) ☆


  

 16世紀にドメニコ・フォンターナにより制作されたもので、教皇シクストゥス5世の時代に、フェリーチェ水道の修理が完成したのを記念したものだそうです。中央のモーゼ像は、伝説だとプロスペロ・ダ・ブレシアの作とされるが、実はソルマーニのもの、とのこと。 ・・・昔調べて書いた記事は微妙にズレというか、違いがあるのですが・・・その頃に参考にしたのがどの資料なのか不明・・・ありゃ。
 で。このモーゼの像。初めて見たとき(=十数年前のハネムーン)から「すごく汚い像」ってイメージがあって・・・前年やっと周辺が囲われていたので・・・「おお、ついに洗浄か!?」と期待を膨らませていたのです。ですので、今回は、是非確認しなくては、と思っていたんですよ〜♪ ・・・下に2007年と今回、Before/Afterの写真を。ほんとに、見違えるようです!

        

 で。このモーゼ像の左側、通りの向うにあるのが、サンタマリア・デッラ・ヴィットリア教会。今回は訪れることができませんでしたが、ここにあるのが、ベルニーニの「神の愛に打たれた聖テレーザ」。前年に撮った写真はこちら。 「The Gallery of Art」にも、その彫刻の写真があったので、せっかくなので掲載しておきます。この彫刻も好きなので・・・♪






☆ 共和国広場 ☆




 前年、この広場に面したホテルに泊まったので、広場の紹介はそのときの記事をご参照ください。(こちら⇒

 この日・・・なにやら、ただならぬ気配が。・・・何だかお葬式っぽいような雰囲気で。報道車?や警備の人たち、そして軍人さんたち・・・。何があったのやらさっぱりわからず。どうも、あとで乗ったバスのルートもヘンでしたし。さらに、街中の国旗は全て半旗となっていました。 ・・・で。日本に帰ってから、調べました。どうも、アフガニスタンで、タリバンの攻撃によりイタリア人兵士が亡くなって、その国葬が執り行われていたようです。 ・・・日本では報道されていないと思いますが・・・。日々、各国の兵士が犠牲になっているのですね。・・・もっというと、一般市民の方も多く犠牲になっているのでしょうが・・・。私たちは浮かれて遊んでいたわけですが、そんなときにも、多くの命が失われてしまっているのですね。こんなことしかいえませんけど・・・「ご冥福をお祈りいたします」・・・と。

   




☆ アルケオバス(Archeobus)ツアー ☆




 テルミニ駅を出発し、アッピア街道を下って水道橋まで巡ってくれるルートで、途中乗り降り自由のアルケオバス。・・・のはずだったのですが。ガイドブックにはそのように書いてあったのですが!!結果的には、水道橋には連れて行ってもらえませんでした!!アッピア街道を下り、どこかで折り返して・・・結局そのままローマ市街に戻ってきたという、悲しい結末。これで夫が、「やっぱり、『地○の迷い方』だ!」と怒ったのは、いうまでもありません・・・。
 まあでも。せっかく、ティベリウスのご先祖さまの、アッピウス・クラウディウスが造った、アッピア街道を巡るわけですから。街道を楽しみましょう・・・!

 左の写真:まずは、ヴェツィア広場。正面にそびえているのが、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世記念堂。右の写真:フォーリ・インペリアーリから見た、カエサルのフォロ

 

 左の写真:まだ午前の早い時間なので、人もまばらなコロッセオ。右の写真:バスに揺られながら撮ったコンスタンティヌスの凱旋門。右側のマイル円柱のようなものが見えるのは、気のせい??

 

 カラカラ浴場。こうやてみると、結構建物が残ってますね。・・・私は、2007年にオペラを見に行っただけでしたが、ちゃんと見学すればよかったなあ・・・と、ちょっと後悔。

  

    ローマ街道の定番、唐傘松の並木道。この木って・・・2000年立っているんでしょうか?2000年なら、もっと太いですよね・・・?やはり、代替わりしながら、この風景は維持されている・・・と考えるのが普通ですよね・・・???
 こちらは、アウレリアヌスの城壁の手前にある、ドゥルーソ門。でも実は、カラカラ浴場への水道の橋脚だったものだそうです。このすぐ向うに、サン・セバスティアーノ門があります。この門を抜けると、アッピア街道です!    

 こちらは、チェチリア・メテッラの墓、と呼ばれる建物。外装の材質は、コロッセオに用いられていたものと同じ、「トラヴァーチン」のようです。第一回三頭政治のひとりであるクラッススの息子が、妻の死を悼んで建てたものだそうです。・・・ぱっと見、むしろアウグストゥス皇帝廟より立派だわ(苦笑)。・・・そして横には、中世に建造された建物が。。
 ※トラヴァーチンって、イタリア語では「travertino(トラヴェルティーノ)」というらしい・・・。え〜今からあちこち直すの面倒だ・・・

   

 これは、(多分)、マクセンティウスの競技場と館の跡。競技場は、マクセンティウス帝がコンスタンティヌス帝に敗れて戦死したので完成せず、結局一度も使用されなかったのでは・・・ということです。   
   旧アッピア街道の敷石。大きい不規則のほうが、そうです。きっとティベリウスは何度となくこの道を通ったことでしょう!
 このあたりでバスはUターン。アッピア街道を再びローマに向けて走ります。
 ほんとうは、もう少し先までいくと、旧街道の風情がより感じられるそうなのですが・・・・・・

 こちらは、アウレリアヌスの城壁に設置された18の門のうちのひとつ、サン・セバスティアーノ門。最大、かつ、もっと最も完璧な形で残っているのだそうです。当初は「アッピア門」と呼ばれていたとか。建物の上階は博物館になっているそうです。
 往路は、この門を潜り抜けましたが、帰りはここでバスが左折。別の道へ・・・。
   

 こんどは、カラカラ浴場を裏側から眺めることに・・・。左の写真、、大きな二つの塔のようなもの・・これ、見覚えありますね。ちょうどこの前あたりに、夏はステージが設えられ、オペラが上演されます。

  

 そして、市内中心地に戻ってきました!奥に見えるのは、マルケルス劇場。カエサルが建設を始め、アウグストゥスの時代に完成しました。当時の慣例に反し、亡くなった甥の名前をつけているんですね。本当なら、ユリウス劇場、とかになってたはずなんですが、ね!   

 このあたりはヴェネツィア広場。左の建物には、ヴェネツィアのシンボル、翼の生えたライオンがかかげられています。でも、ヴェネツィア博物館はこの建物ではないらしい・・・。 そして、右の写真は、トライアヌスの記念柱

  

 そして、クィリナーレの丘を通りがかりました。ここは、前年必死で(笑)訪れたところです。(こちら⇒) 下の写真は、大統領官邸前に設置されているオベリスクと水盤。オベリスクは、もともとアウグストゥス皇帝廟の前にあったもので、水盤は、ティベリウスが再建したカストルとポルックスの神殿のところにあったもの!

   

  その後、(おそらく、葬儀の影響もあったでしょうが・・・)街中をぐるぐる巡り、テルミニ駅に向かいました・・・。左の写真は、半旗が掲げられている様子。この日は、街のあちこちで見かけたので、『何かがあった』ことはわかったんですけどね・・・。 そして右の写真。朝見たモーゼの噴水と、その左側にサンタマリア・デッリ・アンジェリ教会が。

   

 そして、アルケオバスツアーは終了。 ・・・まあ、それなりには楽しかったですよ!でも、オープンバスはちょっと寒くて、皆帰国後は風邪気味に(苦笑)。それに、とにかく、予定していた水道橋までたどり着けなかった!!
 ・・・それでこの後、気を取り直して地下鉄で水道橋に向かいました。 
      



☆ サンタ・マリア・イン・コスメディン教会(Santa Maria in Cosmedin) ☆


  

 もしかしたら、ローマで一番有名な場所?? そう、あの、『真実の口(Bocca della Verita)』の設置されている教会です。 何でも、このあたりに住んでいたギリシャ人のために6世紀に建てられた教会のようですね。その後、8世紀には拡張され、さらに12世紀、18世紀に改装され、21世紀になって元に戻されたり、まあ、いろいろ変遷はあるようです。鐘楼は、ロマネスク様式とのこと。内装は、8世紀や12世紀の状態が再現されているようです。
 ちなみに、『真実の口』は、古代の井戸、もしくは大下水溝「クロアカ・マクシマ」の蓋といわれています。顔は、河の精とか、トリトンだ
とかいう記述も見た見たような気がします・・・。

 この教会、地下鉄の駅からは少々離れていて、若干訪ねづらい場所にあるのです。でも、ちょうどアルケオバスのルートになっていたので、ここで一旦途中下車しました。

   まあ、お決まりですが、一応載せときます(笑)。これは教会内部ではなく、柱廊?のところに設置されていて、この写真を撮るために観光客が並んでます(笑)。このときは季節柄、行列はたいしたことありませんでした。
 こちらは、教会前の真実の口広場にある、ヴェスタの神殿   



  
☆ クラウディア水道橋(Aqua Claudia) ☆



 地下鉄A線・Subaugusta駅で降りて綺麗な住宅街をしばらく歩いていくと、突然広大な景色が現れます。『水道橋公園』と呼ばれるスペースで、実は旧アニオ、ユリア、テプラ、新アニオ、そしてクラウディアなど計7本の水道が保存されているらしい・・・のですが。自分で確認できたのは、上の最も有名なクラウディア水道橋のほかには1本だけでした。
 クラウディア水道橋は、ティベリウスの次の悪名高いカリグラ帝により着工され、次の叔父であるクラウディウス帝のとき、52年に竣工したそうです。水源はアニエネ川とのこと。
 古代ローマといえば水道橋・・・でもないでしょうが、古代ローマの偉大さを体感できる水道橋、大好きです♪今回のローマ旅行の一番の目的は、この水道橋を見ることでしたから・・・目の前に伸びる水道橋が目に飛び込んできたときには、も〜う、感激でした!! 

 で。このあたりは、こんな田園風景が広がっているんです! ・・・このあたり、ローマ中心地からもさほど離れていないと思うのですが・・・観光客なんて全然いなくて、地元の人が犬を散歩させたりランニングとかしていたり・・・と、ほんとにのどかでいい場所です♪案外、住むにはローマ中心地よりもこの辺のほうがいいかも・・・と思いました!

  

 公園の手前側にあったのが、これ。なんか、土管のようなものもあるので、何だかちょっとヘンな気もしたのですが、多分ちゃんと水道橋の遺跡なのでしょう。どの水道なのかもさっぱりわかりませんが(苦笑)。・・・本来は“橋”だったと思うのですが、ほとんど埋まってしまってます。
 これを乗り越えると、目の前にクラウディア水道橋がどーんと現れます(笑) 右の写真の松の向うにちょっと写っているかな・・・?

  

 そして、こっちがクラウディア水道橋♪ ・・・結構先の方まで続いています!   

 大きさを把握していただくために、人物と一緒の写真も載せます。 ほんと、大建造物です・・・。 右の写真は、水道橋の途切れた先。こっち方向がロー市街側です。やっぱり建材として利用されてしまったんですかねえ。



ここでのんびりしたあと、地下鉄駅近くの小さなお店でお昼ゴハンを食べました。




☆ パンテオン(Pantheon) ☆



 今回、パンテオンは修復中。“M. ARIPPA”の文字も見えませんでした・・・残念〜!本当は、三角破風の下に、『M.AGRIPPA L.E.COS.TERTIVM.FECIT(マルクス・アグリッパ・ルキウスの息子・三度目の執政官職にて建造)と書かれているんです。ただし・・・この建造物はアグリッパの建造したものではなく、ハドリアヌス帝によって再建されたものです。
 そうはいっても、古代ローマの現存する最も完全な遺構・・・しかも、世界最大の石造り建築です。それはもう、素晴らしいのひとことでしょう!この建造技術は、それはもう、目を見張るものですが・・・その解説はきっとあちこちに出ていると思うので省略します(笑)。建造技術もですが、この建物のデザイン性・・・とでもいいますか。画期的な構造がまた感動的です♪ハドリアヌス帝の類まれな才能を反映したものだと思います。
 『パンテオン』とは、ギリシャ語で“全ての神々”を意味します。内部には7つの壁龕があり、それは7天体神を祀るためのものだったというのが定説のよう。 なぜ、このパンテオンだけが他の建造物と違って、完全な状態で残っているかというと・・・教皇が608年に聖母マリアと殉教者たちに捧げた教会としたから、です。

 左の写真は入り口。このブロンズの扉は、建築当時のものといわれているそうです。 内部には、ラファエロなど芸術家たちのお墓があります。また、イタリア王国統一後はここが王室の墓地になっているのため、王様のお墓もあります。 で、右側の写真は、イタリアを統一したヴィットリオ・エマニエル2世のお墓です。

 

 毎回撮ってしまう、丸天井。このクーポラは、サン・ピエトロ寺院よりも大きいのです♪ 
ちなみに。新横浜プリ○スホテルのエレベータホールは、このパンテオンのデザインを模倣しています!ちょっと感動しました(笑)。

    

 床や壁には色鮮やかな石が用いられています。古黄大理石、赤色の斑岩、緑の蛇紋岩などで、広大な帝国領土を寓意しているのだそうです。    

 左のオベリスクは、パンテオンの前の広場に立っているもの。この近所にあった、イシス神殿付近から出土した、比較的小ぶりなオベリスクのうちの1本、みたいです。ちなみに広場の名前は、『ロトンダ広場』だそうです。
 左の写真は、パンテオンの裏側。大理石か、トラヴァーチン・・・じゃなくてトラヴェルティーノの外壁がちょっと残ってます。

    


        パンテオンの裏あたりにある広場と教会。広場の名前はは、『ミネルヴァ広場』、教会は、『サンタ・マリア・ソプラ・ミネルヴァ教会』です。教会の正面は質素ですが、中は結構豪華で、数々の美術品が収蔵されているそうです。
手前のオベリスク、これもイシス神殿の近所から発掘されたものを再利用しているもののようです。ちなみに、このように象の上にオベリスクを載せたのはベルニーニですって。ただし、彫刻は、弟子のE.フェッラータ作だそうです。


 ↓は、パンテオンから、ナヴォーナ広場に向かっている途中の風景。左のポスターに書かれている“MAI PIU HIROSHIMA”は、“ノー・モア・ヒロシマ”という意味。 この日は、(おそらくイタリア軍人さんの葬儀があったためもあるでしょうが)反戦集会かデモみたいなものも、広場の近くで見かけました・・・・・・。

      

  これは、街中に突然あらわれた水盤。・・・歩いているだけでこういうものがぽこぽこ出てくるのが、ローマの魅力の一つかもしれません。 きっと、いろいろ調べると、エピソードがあるものなんだろうなあ。
  




☆ ナヴォーナ広場(Piazza Navona) ☆




 この広場は、紀元81年から皇帝となったドミティアヌスにより建設された「ドミティアヌス競技場」の跡地です。このため、細長い形状をしています。端の方の建物の壁面がカーブしているのは、競技場の形状に合わせたのかもしれません。(ポンペイウス劇場跡地については、そのような記載がみられるのですが・・・)ちなみにこの競技場は、3万人を収容できる規模だったそうです。周辺部には、競技場の遺構が残っているようですね〜!残念ながらそれらを確認はしませんでしたが・・・。
 ドミティアヌス帝は、ティベリウスの統治をかなり見習ったらしいです♪元老院との関係が悪かったため、死去後『記録抹殺刑』に処せられてしまいましたが、市民はこの競技場を「ドミティアヌス競技場」と呼び続けたらしいですよ。・・・きっと、市民は彼に感謝していたのでしょう。(・・・は、ローマ人の物語的解釈です) 彼は統治の後半で(そんなとこまでティベリウスの真似しなくてもいいのに・・・)恐怖政治なんてやっちゃったので、当然後世にのこった評判は散々でした(それもタキトゥスのせいだ!)が、そんなにいうほど悪い皇帝じゃないと私は思います。あ。歴史学的には、ちゃんと評価されているそうです。よかったよかった・・・・・・。

 これは、広場の中心にある『四大河の噴水(Fontana dei Fiumi)』。ナイル、ガンジス、ドナウ、ラプラタ川を表す像が配されています。噴水の設計?はベルニーニですが、彫刻は別の4人の彫刻家により制作されたものだそう。オベリスクは、先のマクセンティウスの競技場から運ばれたものです。

    

 そして彫刻部のアップ。左の写真、ラプラタ川を表す彫刻が手を挙げています。なんでも、ベルニーニの好敵手ボロミーニの作品であるサンタニェーゼ・イン・アゴーネ教会(上写真に写っている建物)が倒れてくるのを恐れてこのポーズになっている、という逸話があるそうですが、実際には噴水のほうが先に出来ているので、これはガセらしいです(笑)。教会は1666年完成、噴水は1651年だそうです。


   

 こちらは、『ネプチューンの噴水(Fontana del Nettuno)』。最初は水盤だけだったのが、あとから彫刻が加えられたそうです。作品は、1878年に行われたコンクールで選ばれたもののようです。
 こちらは、『ムーア人の噴水(Fontana del Moro)。ベルニーニの下絵を元に、G.A.マーリが作ったものだそうです。周囲にある4体の像や仮面の彫刻は、19世紀のコピー。オリジナルはボルゲーゼ公園の「湖の庭園」にあるそうです。   




☆ マルクス・アウレリウスの記念柱(Colonna di Marco Aurelio) ☆
(Columna Marci Aurelii:ローマ人の物語での表記=ラテン語?)


 哲人皇帝マルクス・アウレリアスのゲルマニア戦役における勝利を記念して、193年に当時はカンポ・マルツィオの北端にあったこの地に建てられました。トライアヌスの記念柱を見本にしたものだそうですね。

 この記念柱については、塩野さんがいろいろ書いてます。 詳細は、「ローマ人の物語」の“終わりの始まり”を読んでいただければ、と思いますが、少しだけ触れておきましょうか。
 まず、この円柱は、芸術上の価値や史的価値が低いとされているそうです。で。実際、トライアヌスの円柱と比べても、戦役の全貌が全然分からないそうで。その理由を、(マルクス・アウレリウスの、総司令官としての資質に欠けることからくる)、基本戦略のない戦術だけで戦われた戦争であったからではないか、と述べられています。
 塩野さんは、双眼鏡を片手に円柱を観察していたら、3日目に、首相官邸警護の警官に不審尋問されてしまったそうです(笑)。そう。この柱の前には、首相官邸(or内閣総理府?)となっているキージ宮殿があるのです。

 ちなみに。この円柱のある広場は、コロンナ広場(Piazza Colonna)です。下の左写真は、広場にある噴水。1575年デッラ・ポルタの作品です。キージ宮も、彼によって建設が始められたようです。右写真がキージ宮。あまり半旗っぽく見えませんが、やっぱり半旗だったと思います。


  

これにて、この日のイベントはおしまいで〜す!


2011.07.19  

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