2日目(22日)

** この日の観光コース **

(トリトーネの噴水、トレヴィの泉、ヴェネツィア広場) 〜 フォロ・ロマーノ 〜 パラティーノの丘 

これまで、何度となく外から眺めていながらも中を歩く機会が一度もなかった、フォロ・ロマーノとパラティーノの丘。
今回は、やっと念願がかない、中を歩き回ることができました!
ですが、さすがに真夏のローマ。炎天下のお散歩は結構疲れました(笑)
解説にはかなり温度差が。どうしても、愛の差が出てしまいますね・・・(笑) 



☆ フォロ・ロマーノに向かって  ☆
 

 今回は若者(?)二人ですからね。交通機関は使わず、徒歩でヴェネト通りのホテルからフォロ・ロマーノに向かいました。左の写真は、通りを下ってまず目に入る、バルベリーニ広場のトリトーネの噴水。 右は、ご存じトレヴィの泉。 今年は、トレヴィの泉が修復or洗浄なんですね〜! 朝まだそんなに遅い時間でもないのに、すでに混雑しはじめているトレヴィの泉。さすが、観光シーズンですね。

    

 トレヴィの泉を抜け、コルソ通りに出て、ヴェネツィア広場に向かって歩いていきます。 こちらは、ローマのランドマークのひとつ、ヴェネツィア広場のヴィットリオ・エマヌエーレ記念堂(Monumentei a Vittorio Emanuele II)。 ここには、無名戦士の墓があるのです。 

 上の写真のヴェネツィア広場の右側には、ムッソリーニによって作られた、「フォーリ・インペリアーリ」という通りがあります。 下左の写真のように、この通りの突き当りがコロッセオ。 そして向かって右側が、フォロ・ロマーノです。フォロ・ロマーノの入り口は、コロッセオの近くです。出口は複数個所にありますが・・・。 ちなみに、右の写真は、見学できるフォロ・ロマーノの隣(?)にある、カエサルのフォロのあたり。

    

 上の写真にもなにやら舞台装置っぽいものがちょっとだけ見えますが・・・どうも、ここ、カエサルのフォロでで演劇か何かが行われているようです。 主役はネロ。 下の写真のように、ネロのポスターがあちこちに。 それにしても、ネロくんにシルクハットとは〜(笑)。

      




☆ フォロ・ロマーノとパラティーノの丘 (Foro Romano e Palatino) ☆

<フォロ・ロマーノ編>



 さあ。いよいよ念願の、フォロ・ロマーノです♪ 丘に囲まれたこの地、かつては湿地帯で墓地などに利用されていただけだったそうです。それが前6世紀、第5代タルクィニクス王の時代に大下水道(クロアカ・マクシマ)が建設され、干拓事業で平地として利用されはじめました。初めは市場に使用されていましたが、次第に神殿など公共建造物が占めるように変わってきたそうです。
 こちらの写真は、カエサルの神殿前あたりから、カンピドリオの丘方面を眺めたもの。正面には、スッラによって建設されたタブラリウムの上にローマ市庁舎が乗っかっているのが見えます。

 この地味〜な絵は、入り口にあったフォロ・ロマーノとパラティーノの丘の全景です。
フォロ・ロマーノとパラティーノの丘はつながっていて、入場料金は12ユーロでした。あと、オーディオガイドもありましたが、今回は初めてなので、まずはじっくり見ようかとおもい、借りませんでした。確か、ちゃんと日本語もありましたよ。ガイドを借りない場合は、場内の配置図がもらえないので、自分で何かしらの地図を持参することをお勧めします。


☆ 元老院/クーリア・ユリア(Curia Iulia) ☆



 カエサルのフォロ・ロマーノ大改造に伴って工事が着手され、完成したのはアウグストゥスの時代、前29年だそうです。 共和制時代にはこの隣あたりに建っていたものが火災で焼失したのだとか。 でも塩野さんは、「元老院の会議をどこで開くかは決まっていなかった」と述べています。 まあともかく、カエサルが元老院議員たちに殺害されたのは、このあたりではなく、ポンペイウス回廊でした。 ちなみに、こんなにきれいに残っているのは、3世紀の火災の後にディオクレティアヌス帝により再建され、7世紀から教会堂となっていたから、だそうです。 (そう、教会として用いられていた建物以外はことごとく破壊されてますからね!) 

 それでは、中にはいります・・・! 本当は、床は立派な大理石の象嵌のようなのですが、ちょうど夏休みだからなのか、中で臨時展示会のようなものが開催されており、床がほとんど見えなくなっていました。残念〜〜! 
 下の写真は、入って右側の壁面で、ちょっと祭壇のようにみえるものがあります。でも、何か、という説明を発見することはできず(笑)。 

    

 左の写真は、建物の天井を下からとったところ。ローマの建築は、壁、柱などは石造りですが、天井は木造であると何かで読んだような気がしましたが、確かに。 木組みの天井です。
 左は、建物の端っこですが、おそらくわずかに残った大理石の内壁かと。

    

 この浮彫は常設のようです。これは、中央広場で発見されたもので、トライアヌスの仕切り板、と呼ばれているとか。

    

 さてそれでは、この元老院の中で開催されていた展示会の展示品も少し紹介します。 イタリア国内の博物館から、主に、古代ローマ時代のガラス製品を集めたもののようでした。 普段はもっとガランとしているのでしょうが・・・。
 
 まずは、ガラスの食器・・・というか容器ですかね。古い順に展示されてました。 左は、 紀元前7〜6世紀のもの、メソポタミアから地中海沿岸に伝わったものと思われます。 一方、右は紀元前、紀元後1世紀帝政時代、すなわちちょうど、ティベリウス帝の時代が含まれるのですね♪

    

 続いては食器、皿。 こちら左は紀元前2〜1世紀、ヘレニズム時代、もしくは文化? 一方右は、紀元前後1世紀、ティベリウスの頃を含む帝政時代、ですね。 そんな古い時代でこの美しさですよ! もう溜息ものです。 もちろんきっと、庶民が手にできるようなものではなかったのでしょうが・・・・・・。

    

 左は・・・写真を撮りそびれ、どの時代のものかわかりません。すいません。でも、鮮やかなコバルトブルーやスカイブルーの壺?水差し?が美しいので載せておきます。 右はこんどは装飾品の紀元後1世紀帝政時代のもの。 
 あとこのほかに、ガラスのカメオのようなものも展示されていました。

    


 続いては、モザイク。 モザイクにもガラスが使用されているのですね。 左はガラスの器などの静物画?で、紀元後1世紀のもの。右は、港の様子を描いた紀元後2〜3世紀初頭のもの。クラウディウス・クラウディアヌスの家?から出土したもののよう。

    

 中で、なにやら展示品関連のVTRが流されていました。 もはや、イタリア国内でもディスプレイやTVってほとんどがS社製で、ひどくがっかりしているのですが・・・ここでは珍しく日本メーカ製のモニタが♪ いや〜、嬉しかったです(笑)! 
 これにて、元老院内部は終了。

☆ コミティウム(Comizio) ☆

 共和制時代、コミティウムには、民会の権威を象徴するさまざまなモニュメントや彫刻が置かれていましたが、それらの多くはスッラによって撤去されました。スッラは、民衆派を弾圧、追放する戦略の一環として、この改造に手を下したのだそうです。 コミティウム南側には祭壇などもあったのですが、これらは神聖なものゆえ撤去できず、そのため、グランドレベルをわざわざかさ上げし、地下に埋めてしまったそうです。 (そちらのほうがよほど悪いような気がするのは私だけ?) ここで上にかぶせられたのが黒い大理石板だったため、この場所は「ニゲル・ラピス(Niger Lapis 黒い石)と呼ばれるようになったそうです。
 で、現在こちらは発掘中のようで、こんな風に工事中の様相。外にいろいろ説明パネルがありました。 すごい!スッラ以前の遺跡が出てくるのか・・・! 発掘が終了したら、是非見たいですね・・・!


☆ 神君カエサルの神殿(Tempio del Divo Giulio) ☆

 どうも残っているのは、前面の基壇だけ、みたいです。(昔の写真をみると、屋根はついていませんでしたが、保存用に設置されたのでしょうか・・・。) 中央部分の、カエサル火葬後の祭壇を、基壇前面が取り囲む構造になっています。祭壇部分を横からのぞいてみたのが、右の写真です。 比較的新しい花束が多数供えられていました。カエサル人気は健在、ってことでしょうか。うらやましい(笑)。 
 神殿建立は、元老院派とオクタヴィアヌス・アントニウスの戦いに終止符が打たれようとする頃、前42年に決定されたそうです。決定は三頭政治の三人でなされたようですが、費用は全部オクタヴィアヌス持ちだったのだそうです(笑)。完成したのは前29年8月18日とのこと。

    


☆ フォカス帝の記念柱(Colonna di Foca) ☆

 は?フォカスって誰?? ・・・という感じなのですが、ビサンツ帝ってことなので、まあ知るわけないか、と(笑)。 7世紀初頭に、以前のものを再利用して献じられたものだそうです。      


☆ バシリカ・ユリア(Basilica Ivlia) ☆

   真ん中あたりにみえる柵の向こう一帯がそうです。かつてはここに、グラックス兄弟の父が、舅のスキピオ・アフリカヌスの家を買い上げて建てたバシリカ・センプロニアがあったのを、カエサルが建て替えたそうです。竣工させたのはアウグストゥスで、前14年の火災後一回り大きく再建、竣工式は前12年に行われたとのこと。また前9年の火災後にもまた再建しているらしいです。まさに、アウグストゥスの力を誇示するために建てられた象徴のようなものですね。


☆ コンコルディア神殿(Tempio della Concordia)と黄金の里程標(Miliarium Aureum) ☆

 
 神殿跡拡大→  
 里程標拡大→ 

 どっちもぱっと写真見ても、どれかわかんないですよね・・・。だいたい、この場所も、写真ではわかりにくいですが・・・タブラリウムの向かって右前方向です。
 まず、コンコルディア神殿は、写真工事中の足場の右手前の、土台の上に石のかけらが乗っかっているところです。残念ながらこれしか残っていません。  この神殿は、前367年に「リキニウス法」成立を記念して建立されました。コンコルディアとは、一致、調和、融和、協調、の意味だそうです。 そしてこの神殿、実はティベリウスが再建しているのです。アウグストゥスの後継者として(やっと)認められたティベリウスが、アウグストゥスの命で行ったとのこと。古い神殿を撤去し、隣のバシリカも取り壊し、「それまでとは全く違うプランの神殿をつくった」のだそうです。 左右に大きく羽を広げたような、堂々としたつくりだったそうで・・・見たかったなあ・・・。この神殿は紀元後7年に着工、10年に完成したそうです。
 一方、黄金の里程標ですが・・・これは、アウグストゥスによって建てられたもので、鍍金された青銅張りの円柱だったようです。そしてそこには、主要都市への距離も気zまれていたそうです。これこそ、帝国中に張り巡らされたローマ街道の起点ですね。 残念ながら今残っているのは、台座(右)と柱の一部。


    ☆ カピトリーノ坂(Clivus Capitolinus) ☆

 ここは、凱旋式パレードのルートにおけるクライマックス!フォロ・ロマーノからカンピドリオの丘、そしてそこに建つユピテル神殿を目指す坂道です。
 パレードは、始めは「いい気になりがちの凱旋将軍の威光に水をかけるシュプレヒコールは、神々が凱旋将軍に嫉妬しないようにとの理由で、ローマの凱旋式の伝統でもあった」・・・とのことで、にぎやかな雰囲気だったものが、この坂に差し掛かると、厳粛な雰囲気に変わったようです。
 ティベリウスも、何度もここを通ったんだなあ、と思いながらこの道に立ってみると、感慨もひとしおです・・・。
     


☆ サトゥルヌス神殿(Tempio di Saturno con erario) ☆

   サトゥルヌスとは、種まきと農耕の神、だそうです。王政末期に建てられたローマ最古の神殿だったそうですが、現在残っているのは、これもまた3世紀末の火災の後に修復された姿なんだそうです。
 この神殿には国庫が置かれていたそうで、「賽を投げた」カエサルが戦費を強奪したのはここ、なんですって(笑)。 まあそれも、私利私欲しか考えなかった元老院派の人たちが国庫をほったらかして逃げ出したから、なんですが・・・。まあ、人間の質ってものも、今も昔もきっと大してかわらないんでしょうねえ。


☆ セプティミウス・セヴェルス帝の凱旋門(Arco di Settimio Severo) ☆

 紀元203年に、セプティミウス・セヴェルス帝がパルティアに対する戦勝記念として建造しました。 この凱旋門の特徴は、それまでのもの(アウグストゥスやティベリウスのものもあったようです)と違って、周囲との調和を『壊すことにより」存在を主張している」よう、なのだそうです。 コイツのおかげで、カエサルの神殿側から、ティベリウスの再建したコンコルディア神殿の全景が見えなくなってしまったんです! 
 全景を撮り忘れてしまいました。愛がないですね(笑)。フォロ・ロマーノの最初の写真の右端に写っているのが、この凱旋門です。
 


☆ ヴェショアスアヌス帝とティトゥス帝の神殿(Tempio di Vespasiano e Tito) ☆

 
 タブラリウムの前、コンコルディア神殿の隣に位置しています。現在柱が3本だけ残っています。 これは、ドミティアヌス帝が、父と兄を祀る為に建てたもの。 


☆ カストーリ神殿(Tempio dei Castori) ☆ 

 コンコルディア神殿とともに、アウグストゥスの後継者となったティベリウスにより再建されたもの♪ 青柳氏によれば、カストーリ神殿は、「共和制樹立後、台頭目覚ましい貴族たちの力を象徴する神殿で、紀元前484年の完成後もたびたび改築されてきた」のだそうです。そして、「ユリウス家よりもはるかに名門の貴族であるクラウディウス家の長男が、貴族と関係の深い神殿の徹底した改築工事を手がけることは、伝統にかなった人選」だそうで。 こちらは、先のコンコルディア神殿着工より前の、6年に完成し、弟ドゥルーススとともに奉献式を行ったそうです。
 今では柱3本しか残っていませんが、こちらも立派な神殿だったようです。基壇の高さは7mで、正面に大きく緩やかな階段があり、ここは「雄弁をふるう場所としてしばしば利用された」のだそうです。よって、「ここは広場西のロストラ、カエサルのロストラについで、三番目のロストラと呼ばれ、その内陣で元老院会議が開催されることもあった」とのこと。 さらに、度量衡管理所、両替商の店も中にあったようです。

     


☆ アウグストゥスの凱旋門(Arco di Augusto) ☆

 アントニウスを破った、アクティウムの海戦を記念したもの、との記載がある本もあるのですが、前36年のナウロコス海戦勝利を記念したものとも書かれていて、どっちが本当か私にはわかりません(笑)。 (アクティウムの海戦の凱旋門は別にあったっぽいかも、です。複数のアウグストゥスの凱旋門があった模様)
 いずれにしても、もう門としての形はなく、わずかに台石しか残っていません。。。 下の写真、門を両側から撮ったものです。

    


☆ ヴェスタ神殿(Tempio di Vesta) ☆

    ヴェスタは、かまどと火の女神。内部には聖火と、アイネイアスがトロイアからもたらしたパラス・アテナ像が安置されていたとか。 (でも、パラス・アテナ像って、オデュッセウスがトロイアから盗んだんじゃないでしたっけ???この辺、謎です・・・・・・)。 
 これらを守っていた巫女は10歳前の貴族の娘から選ばれ、多大な権威をもっていたそうです。ですが、30年間も純潔を守り神に仕えなければならなかったのですから、大変ですね。青春は神に捧げちゃうんですね・・・
 現在残っているのは、紀元191年の大火の後、セプティミウス・セヴェルス帝の妻ユリア・ドムナが再建したものだそうですが、元々はローマで最も古い神殿だったそうで、再建時にも伝統的な形を継承したそうです。


☆ ヴェスタ巫女の家(Casa delle Vestali) ☆

 ヴェスタの神殿を守る巫女さんたちのおうちです。 こちらも、セヴェルス帝の妻ユリア・ドムナが再建したそうです。 結構広いです!
 下の、左上の写真は、神殿からみて右奥にある列柱廊。 遠くに並んでいるのは巫女たちの像。 あと、残りの写真は、それぞれが何の部屋かよくわからないです・・・。 ちなみに、右下の写真は、家の南西あたりの一からパラティーノの丘を見上げたもの。このあたり、ドムス・ティベリアーナの一部だと思われます。 

    

    


☆ アントニヌスとファウスティーナの神殿(Tempio di Antonino e Faustina) ☆

 神殿の後ろ側がサン・ロレンツォ教会として改造?されているためか、ファサード、階段、側面の梁がほぼ残っているようなのですが、こちらは現在修復中のようで、全貌は見えませんね。アントニヌス・ピウス帝が、皇妃ファウスティーナ没後に建てたのだそうです。      
 

☆ レギア/王宮(Regia) ☆

    手前の四角い石が積まれた土台のあたり。第2代の王ヌマが建てたといわれているそうです。王宮、というにはちょっと小さい気もしますが・・・REXと刻まれた陶器のかけらが出土したから、そのように命名されたよう。この奥が、カエサルも住んでいた、最高神祇官の公邸。


☆ マクセンティウスおよびコンスタンティヌスのバシリカ
(Basilica di Massenzio o di Constantino) ☆

 マクセンティウス帝が着工、コンスタンティヌス帝が竣工させたそうです。彼ら政敵で、コンスタンティヌスはマクセンティウスを破ったというのに、名前は残したんですね・・・。 ちなみに、ここにあった柱の一つは、サンタ・マリア・マッジョーレ教会前の広場にあり、マリア様を載せてます。それが、右の写真。(ちなみに、その左に見えるホテルにも泊まったことがあります。朝食を屋上テラスで食べられるので、このマリアさまの像や教会がとってもよく見えました)

    


☆ ティトゥス帝の凱旋門(Arco di Tito) ☆

 ユダヤ戦争の勝利を記念して、ティトゥス帝没後に、弟であるドミティアヌス帝が献じたもの。アーチ内側の、カンピドーリオの丘側から見て向かって右の浮彫が、下左の写真。凱旋の様子を表しており、戦利品であるユダヤの象徴である七枝の燭台が見えます。 そして天井には、下右写真のように、鷲に乗って昇天するティトゥス帝が表されてえいます。     

    


 なんかもう、えらい長くなってしまいました。すいません! ともかく、ここでフォロ・ロマーノは終わりです。後半は、パラティーノの丘を紹介します・・・。

その2へ続く


2012.8.26

2012年 ローマの旅 Topへ