4日目(24日)

** この日の観光コース **

スペルロンガ 〜 ティベリウスの洞窟 〜 国立博物館 
〜 モーゼの噴水 〜 サンタ・マリア・デッラ・ヴィットリア教会 〜 ピンチョの丘

 この日は・・・セイヤヌスがティベリウスを助けた、例の落盤事故のあった洞窟別荘が、旅の目的地です。
この事件、その後の彼の増長につながってしまったのですよね・・・(涙)
それにしても、ティベリウスの作る別荘地はカプリといい、ここスペルロンガといい、ほんと素敵な景勝地です!



☆ スペルロンガ(Sperlonga)へ ☆


 電車の切符の買い方は、数年前(2009年)より改善されてました。以前は窓口で並んで買ったのですが(当時でもネット予約などはできていたようです)、今は窓口は整理券を取る方式になってますし、自動券売機でも長距離切符が購入できます。この方式なら、前回ナポリで遭遇したような、ムカつく思いはしないで済みそうです(笑)。 あと、電車の切符を買うとき、もしくは事前に必ずチェックをしておかないといけないのは、自分の乗る電車の終着駅! ホームに表示されるのは、○○行、だけですから・・・。 さらに、電車の発車予定ホームは一応時刻表にかいてありますが、これもしょっちゅう変更があるようですので、ほんと、乗る電車は注意深く確認しないといけません!!!

 テルミニ駅のホームです。確か、時刻表ではスペルロンガに行く電車は12番線だったのです。でも、この日は11番線から発車のようです。
 また、発車時間も、この日10分遅れ。 イタリアにおいては、時間にルーズなのは相変わらず、なんですかね(笑)。

 途中で、左手に、あの!!クラウディア水道橋が見えてきました♪最初はぽつぽつのこった部分が見え、やがてこのように連なった部分が見えてきたんです! 電車で走っても、結構続いていましたから、かなりの長さ残っているんですねえ。 ちなみに、クラウディア水道橋を訪ねたときの記録は、こちら→。 

    



☆ スペルロンガ (Sperlonga) ☆


 スペルロンガの駅に着いたのは、20分遅れ。特に事故があったわけでもなく、順調に走っていたはずなのに・・・なぜにさらに遅れたのか???まったく不明。 駅の名前チェックを途中で怠ったため、10分前に着いた駅で間違えていったん降りてしまいました! ほんとに毎回ドキドキな旅です(苦笑)。 駅名が違うことに気が付き、あわててまた電車に乗り、もう一駅、でした!
 そして、駅には、手配していたガイドさんが待っていてくださいました。 英語ガイドさんの予定でしたが、この方がなんと、英語、日本語(しかも大阪弁!)の堪能な方で、当然ガイドは日本語でお願いしました!! 
 駅の名前は、Fondi-Sperlongaです。(このスペルロンガの駅の写真は、帰りに撮ったものです。)Fondiと、Sperlonga、二つの町のための駅、という感じですかね。この辺りはラティーナ県で、昔はカンパーニャ州だったけれど今はラツィオ州みたいです。ここにはヨーロッパで2番目の規模の野菜市場があるのだとか。(1位はパリですって!) トマトとかがたくさん収穫され、どこの家でも、1年分のトマトソースを作るんだそうですよ! 



    駅から車でスペルロンガの町へ。高台まで車で連れられ、眼下に広がる町を、そして遠くに見える景色を眺めました。 小さな町ですが、とてもきれいです。こんな町でのんびりするのもよいかも・・・と思ってしまいました。 このあたりはとても海がきれいで、イタリア内でも有数の海水浴場のようです。この日は午前中はまだ曇りがちでしたので、あまり人も出ていませんでしたが・・・。
 そして町のずっと向こう、岬のほうは、テッラチーナになります。テッラチーナはエトルリア人の町だったそうです。
 実際には、この、風景を眺めていた場所一帯の高台が、古くからの「スペルロンガ」の町、すなわち旧市街のようです。ローマ帝国の崩壊後、(おそらくは防衛などの面から)高台に家が作られたようです。

 上の写真の右奥のほうに、湖のようなものが見えます。たぶんあのあたりだと思うのですが・・・かつては沼地でマラリアなどが蔓延するような土地柄だったのを、ムッソリーニが改善してくれたのだそうです。悪名高きムッソリーニですが、いい施策も結構やっているようですよ!
 
 まずは、この旧市街を散策します。町中は、カプリと同様、車は通れないようです。まずは、車から降りてすぐのところにあった広場。ヨーロッパ広場というそうで、ムッソリーニ時代に作られたよう。広場には市役所(左写真)、そして教会(同右)がありました。 こちらの町の守護聖人は、サン・レオーネだそうです。

     

 その奥からは、また海を眺めることができます。先ほどの海岸の町側の反対を見ると、今日の最終目的地、ティベリウスの洞窟が見えます!そして手前には、海水浴客用のビーチチェア?などがたくさん並んでいます。お天気の良い日は人がいっぱいになるのだとか。
 この日はそれでも、まあまあなお天気ですが、この前の日は大荒れだったそう。
   
    そして、狭い迷路のような道を歩いていきます。その雰囲気は、カプリの街に通じるものを感じます。そう、“ちいさなカプリ(Capri piccola=勝手に名付けてます)”といった風情。 店の前にこんな風に野菜が山盛り!・・・ってのも、カプリの裏通りでもよく見かけた風景ですね。 それにしても、海外ではとにかく野菜が巨大!! 
 町の家々の壁は白く塗られています。「La citta bianca]というそうで、ギリシャ風なんだそうです。ペストの蔓延を防ぐという効果もあったとか。
 南イタリアには、他にもそういう町があったと思います。

 ある建物の壁には、このような絵が描かれています。これは、海賊・バルバロッサ(オスマン帝国の提督)との攻防や、ジュリア・ゴンサーガという貴族の娘さんの話・・・(すみません、今となってはメモがもう意味不明で・・・)が描かれて「いるのだそうです。スペルロンガは、バルバロッサの被害にかなりあっているようで、今でも「トルコ人のように」とは、悪い意味で用いられるようです。 
 ・・・と、いい加減な記載をしてましたが。古い新婚旅行時のガイドブックにこれが出てました!それによりますと・・・この絵は、「サラセン人侵攻の図」だそうです。ま、間違ってはいませんでしたね。この絵は、1972年に地元とローマの画家が共同で描いたのだそうです。

    

 どこをどう歩いたか・・・アーチを抜けたところに、こんな風景が広がっていました! 上の最初の海の写真と同じ方向ですが、ちょっと下った場所から撮ってる、という感じでしょうか。ビーチが良く見えます。また、天気も少しずつよくなってます。 
 それで、左の写真ですが・・・端っこに島のようなものが見えます。・・・が、これ、陸続きなんですよ。手前の半島から先がまたちょっと湾になっていて、その次の岬が、島のように見えているのです。 手前の半島の先っちょは、ガエタの街。そして、島のように見えるところは、サン・フェリーチェ・チルチェーオ(San Felice Circeo)、イタリア語だと一瞬わかりませんでしたが、オデュッセイアの、キルケに縁の場所のようです! ・・・オデュッセウスは、キルケとの間に子をもうけており、名をテレゴノスというそうです。 (・・・今オデュッセイアのキルケの場面を確認したのですが、子供ができたとかは書いていないんですが・・・??) まあ、ホメロスのオデュッセイアから派生した話とかにあるんでしょうかね??  ともかく、この、テレゴノスが、ティベリウスのご先祖さま、クラウディウス一族のルーツだとか。 ・・・とすると、あの岬も、ティベリウスに縁の地、ともいえますね♪

    
 上の風景の見えるところは、こんな崖っぷちの階段状の通りです。塀部分のタイルがかわいらしいです♪ こんなところも、どこかカプリ島を思い出してしまうのですが・・・地中海沿岸の町って、みんなこんな感じなんでしょうかねえ???    

 さらに歩いて、視線を北から西のほうに移していきますと、こんな風景です。海の色がきれいです! 右の写真・・・右端にうっすら見えるのが、ポンツァ島、もしくはヴェントーテネ島です。(う〜ん、どっちかわからなくなってます・・・でも、たぶんポンツァかな?左の写真が、ヴェントーテネ島を撮ろうとしたけど見えなかった、ってところじゃなかったかな・・・) ポンツァは、アグリッピーナの長男が流刑された島、そしてヴェントーテネ島はアウグストゥスの娘にしてティベリウスの妻・ユリア、またその娘のアグリッピーナが流された島ですね。

    
 
      こちらの方向には、イスキア島がみえるはず、なのですが・・・残念ながら確認することはできませんでした。夏はやはり、湿度も高く、遠くの風景は見えづらいですね。 もし見えれば、いつも眺めるカプリ島からとは逆の方向からの島の姿になりますね。 
 ちなみに・・・この先に灯台のような建物がありました。これは1532年にバルバロッサによって破壊され、1622年に再建したらまた壊されたそうです。1870年から1969年までは、警備隊がいたようです。
 スペルロンガの町は、ティレニア海沿岸の町の見張り台の役目をはたしていたのですね。

 ちなみにこちらの方向(南のほう)にはガイエタという町があります。 私のアヤシイメモですが・・・スペルロンガからガイエタあたりまでの、海を守る組合があるようで、この名前が「Riviera di Ulisse」というのかな。すなわち、オデュッセウスの海岸・・・?

 これは、旧市街からだんだん降りてきたところ。道がだいぶ広くなってます。
 このあと、海岸まで降り、浜辺のBarで一休みしました。
   
     ちょっとした広場のようになっているところ。このあたりには車も通っています。正面のお店は、ガイドさんおすすめのジェラート屋さんです♪
 
 そして、ここから車に乗り、ティベリウスの洞窟へ向かいました。




☆ ティベリウスの洞窟/国立博物館
(Antro di Tiberio / Museo Alchelogio Nationale) ☆






 ティベリウスが、カプリ島に隠遁する前に愛用していた別荘の跡地です。 まあ、Villa Adrianaを見たあとでは、なんとささやかな!と思わずにはいられませんが。 しかし、洞窟の中にニンファエウムをしつらえたり、部屋もいくつかあったりで、なかなか洒落たつくりではないかと思います。 ここで落盤事故が起きた際に、セイヤヌスがティベリウスを助けたことから、セイヤヌスはティベリウスに重用されるようになったとか? まあ、そういったいわくつきの場所、ということですね。
 マイナーどころのような印象もありますが(実際、日本人なんてほとんど見かけないそうです)、かつての「グランド・ツアー」ブームの時にはここも観光(見学?)スポットの一つだったそうです。当時はまだ発掘もされていませんから、ほんとに洞窟があっただけのようですが。

 この洞窟および別荘の遺跡の隣に、小さな博物館があります。その由来は以下のとおり。 1963年、国道・Via Fraccaの工事の際にこのあたりの発掘が行われ、数々の遺物が発見されました。 かなり貴重な品も多く、元々はそれらをローマの博物館に持ち出す予定だったのだそうです。すると、それを知った地元の方たちはデモをしたり、発掘品を運び出そうとするトラックを止めたり・・・と実力行使でそれを阻止したとか。そして、この地元に博物館がたてられてそこに保存、展示されることになったそうです。 それは、本当に良かったと思います・・・。だって、いくらここの発掘品が素晴らしいからといって、やはりローマに持っていかれてしまったら、これらは One of themみたいな感じになってしまうと思うのです。この場所にあるからこそ、特別なものとして特に大切にされているのだと思います。
 下の写真が、博物館の入り口です。入り口正面に小さな建物があります。それた博物館。そして、洞窟に行くには、敷地内の博物館の手前を左側に歩いていきます。

    

 洞窟とその周りの遺跡も、一応博物館の敷地内、ということになっているようです。 まず、博物館の中をぐるっと回ったあと、洞窟に向かいました。 

 道路沿いの博物館から海に向かって降りていくと、遺跡が見えてきました。 これだってそこそこ広いと思いますが・・・やはり、Villa Adorianaの後ですとねえ(苦笑)。ささやかでこじんまりとした印象になってしまいます。
 ちなみに、洞窟はこの写真の左奥の方向になります。

   

 まずは内陸側から。ここの特徴は、床のレンガの敷き方が、麦の穂のようになっているところ。 Opus spicatum(たぶん・・・笑)という様式らしく、お掃除なんかするときの水はけをよくする特徴があるそうです。で、どういうところに用いられるかというと、お手洗いとか、だそうです。すなわち、ここはお手洗いの可能性大、ということです!
 ちなみに、ここの壁のようにナナメの網のように石が組まれている様式は、Opus reticulatumというそうです。これは、古代の建築様式としては、第2世代のものだそうです。ちなみに第3世代は、平たいレンガが規則正しく積まれている様式で、Opus Lateritium、第1世代はOpus i(?)certumというらしいですが、これはよくわからないようで。 

    

       このあたり、水路が周囲を囲んでおり、奴隷たちが住んでいたところだそうです。この四角い場所は洗濯場?とか。

  このあたりは、浴場のようです。右のアーチのところが窯、すなわちお湯を沸かすところだそうです。 比較的こじんまりとしてますね。 奴隷用なのか、ティベリウス用なのかよくわかりませんが。
 窯の隣、左が熱浴室(Caldarium)、右が冷浴室
 (Frigidarium)だろうとのことです。
   

 左写真の左端から1/3くらいのところ、緑の草が生えているあたりに素焼きの管が残っていました。 ここに温かい蒸気を通して部屋を温めていたのでしょう。・・・でも。この広さって、なんだか大したことないような気もします。もちろん、個人的なお風呂としては十分な広さだとは思いますけれども・・・どうも、前日のヴィラ・アドリアーナが目に浮かんでしまって・・・(笑)。
 そういえば、この手前の壁は、水平のレンガが積んであるので、建築様式としては第3期ですかね。

    
     窯?の内部。現代では物置??みたいです(笑)。
 このあたりは、Gymnasium、運動場ですね。 他と比べてやけに広い気がします・・・。 
 そして、右奥には、例の洞窟が。
   

 そしてこちらは、キッチン。このあたりは2階建てのようです。洞窟とも結構近くなってきました。 洞窟内なんかでお食事するのに、温かい料理を提供するには距離はあまり離れていないほうがよいですものね。 ちなみに右の写真は確か・・・このキッチンの床だったと思います。

    

   上左の写真、キッチンの向こうに柵が見えます。その柵から海を眺めた写真が、この左の写真。こんなに海が近くです!
まあただ・・・昔は今より水位が低かったようですから、海岸線はもう少し遠くだったかもしれませんね。
 ともかく、現代では、こちら側の遺跡との間は柵があるので、海水浴客は入ってくることはできませんよ!

 こちらは、洞窟の手前あたりからキッチンを撮った写真。ちゃんと2階建てっぽく見えますかね・・・???
 こうやってみると、やっぱり洞窟までの距離は結構ありますね(汗) 間にもいろいろ施設はあったんでしょうかねえ???

 
    

 さあ!そして、いよいよ・・・洞窟です! 洞窟の周辺は水で満たされているので、向こう側まで行くのはなかなか気を遣います。これはお年寄がいたら・・・ちょっと難しかったかも! 
 洞窟の中も、右奥と左奥とに穴が開いているのが何となくわかるでしょうか?かつて右側奥などに大きな彫刻が設置されていたようです。 そして、長い草が生えているところは、トリクリニウムだったとか。 一方左の奥には、寝室とされていたらしい小部屋があります。 
 そして・・・下の絵は、博物館に掲示されていた、当時の洞窟内の想像図。このように彫刻が美しく配置されていたと考えられるそうです。(彫刻については後程紹介します・・・) そして・・・小森谷氏は著書のなかで、もしかしたらかの有名なラオコーンも、最初はここにあったのでは・・・なんて想像をされているのですが、それってありえないことではないのかも、と思ってしまいます。何しろ彫刻の作者は同じだし、テーマもトロイア戦争ですから・・・。





  こちらの写真のほうが正面からなので、上のイラストと近い感じですね。 四角い囲いの手前はたぶん、かつては水びだしではなかったと思うのですが・・・。今は山からの泉の水も交じっているそうです。奥のほうは養魚池(Fish Tank)とのことなので、こちらはもともと水場ですね。 
 さらに洞窟の上のほうには、フレスコ画もあったそうです。ポンペイレッドの痕跡もあったとか。・・・う〜ん、行ったとき、それはよくわかりませんでしたが。
(みた記憶無し・・・残念。)
   

  洞窟の前までたどり着きました。左の写真の奥、養魚池の端の、狭い道ともいえないところを歩いてきました。手前はベンチだったか・・・・・・? 一方、右の写真の少しへこんだ部分には、装飾が施されていたようです。たとえば、仮面の形をした石造りの彫刻を明かりで照らすような。 仮面は、博物館にもいくつか展示されています。

    

  そして洞窟の中。左の写真は、洞窟の左側で、この奥に寝室などがしつらえてあったようです。洞窟の中の部屋って、ちょっと薄暗くて嫌な気もしますが・・・夏涼しく、冬温かな洞窟のなか、意外と快適なのかも??
 一方、右の写真は、正面右奥の少し高くなっているところ。ティベリウスの席だったと思われます。 ただ、上の再現図だと、ちょうど巨人の彫刻が前に来るので、そうするとここっては彫刻を楽しむポジションじゃないような気も?? まあ、ホントにあの向きに設置されていたかどうかもわかりませんけどねえ。

    

  寝室の入り口?と思われる部分。一応横に、解説のパネルがありました! まあただ。中はそんなに広そうではないような気がします。ほんと、ティベリウスは質素ですよ・・・・・・。(ハドリアヌスと比べると特に・・・笑) 

    
       こちらは洞窟の(外から見て)左側。やはりくぼみがたくさんあり、装飾が施されていたようです。 この別荘・・・小さいながらも、彫刻などで装飾する趣味の良さは持ち合わせていると思います、本当に・・・。

  こちらは大きな洞窟の向かって左側。ここは崖っぷちというか、半分洞窟という感じのところです。 ここはニンファエウムだったとか・・・? 壁の彩色が結構残っていました。色鮮やかな部屋です・・・。 保存状態が比較的よいのは・・・ここが後に教会として使用されていたこともあったためのようです。洞窟内は涼しくリラックスできるので・・・クリスチャンのみなさまにも居心地がよかったようですね。

    
    

  これで大体、洞窟およびその周辺の遺跡を観終わったことになります。そして、改めて博物館へ・・・。

 まずは演劇用マスク。口の部分があいているのは、声の響きを大きくするためなのだそうです。 まあ演劇用、といっても石造りですから、あくまでも装飾用(ランタンのような用途)と思われます。そう、先ほどの洞窟の入り口付近のくぼみなどに飾り、明かりで照らしたりしたんでしょうね。     

  下、左は母ヴェヌスのレリーフ、紀元前1世紀の作品。 右はアイネイアスと思われるヘルメス柱像で、ティベリウスの時代のもの。ヘルメス柱像って、頭像または胸像を上部に着けた四面の柱体の記念碑、なのだそうです。しかしこれ、私、ぱっと見女性かと思ったのですが・・・。 よくよく見ると、顔だちはやっぱり男性かな???

    

  さ。そして・・・この博物館の主要な展示のひとつ、スキュラの群像(Gruppo di Scilla e della nave)です。この作品、なんとあのラオコーンの群像を製作したアテノドロス、ポリュドロス、ハゲサンドロスの3人組のサインが入っているのだそうです!彼らはロードス島の彫刻家グループだそうです。ロードス島隠棲時代にでもお知り合いになったんでしょうか・・・。 ともかく、これ、残っていれば結構な大作なのではないかと思います。すると・・・確かに、ラオコーンの群像と一緒にかつてはここにあったかも・・・と思わずに入られません。
 さすがに今残っているのは一部といった感じですが・・・まずは、想像復元図から。


  そして・・・こちらが現在残っている彫刻群です。これ、完全に残っていたら、素晴らしかっただろうなあ・・・。ちなみにわかりにくいですが、最初の左の写真、船の艫(とも)に、かの3人の名前が刻まれているのだそうです。私には、「何か字がかいてある〜!」程度にしかわかりませんでしたが。 
 ほかは微妙な私の写真ですが・・・すいません(汗)

    
    
    

  こちらはアンドロメダ。・・・でも、ちょっとバランスの悪い像に見えませんか??実はこれ、下から見上げてちょうどよく見えるように作られているのだそうです。写真の上にカーソルを合わせると、下から見たバージョンの写真になります!なかなかの迫力で素敵です♪ これ、洞窟のどこか高いところに飾られていたもみたいですね。(想像図を見ると、正面の高いところとは違いそう・・・)  なお、顔部分と服の部分の石が違うのはロードス島スタイルのようです。



  このケースの中は建物だか室内だかの装飾とか・・・でしょうか。説明までは全部撮影してなく、詳細が不明です・・・。あ、真ん中の写真の中段は、後で出てくるモザイク原料ですね。



 これは、Oscillium(振動する、という意味があるそう)というものだそうです。魔除けとしてもちいられていたとか。見えにくいですが、レリーフの人物には山羊のしっぽのようなものがついており、パンみたいな神様のようです。    
       こちらはputto、すなわち子供の像です。噴水になっています。この像の特徴は髪型。ヘレニズム風の、「sophisticated」な髪型なんですって!
 この像は、ニンファエウムに置かれていたそうです。
 こちらは、モザイクの原料のようです。石とかガラスとか・・・なんでしょうか???

 下がモザイクの一部です。これらモザイクは、洞窟の中の壁を飾っていたようです。かなりきめの細かいモザイクですよね・・・。ほんと、洞窟の中って・・・どれほど美しかったのかと思います!

 さて。このモザイクの下地の説明だとおもうのですが・・・私のメモに書かれていたものは・・・
 「ポッツォーリの凝灰岩(トゥーフォ)とライムストーンを混ぜてベースを作っている。ここにガラスや貝を・・・・・・」
きっと。上記ベース上にガラス、貝からなるテッセラをはめ込んでモザイクにしている、ってことだと思います!!
     

  このショーケースの中は、フレスコ画のようなものかと思います。中段の真ん中の拡大が右の写真。すごく繊細な表現がなされているようですよね。これしか残っていないのが残念!!きっと、とても素晴らしい絵だったんじゃないかなあと・・・・・・。

    

   こちらはミネルヴァ。タイトルにはコリント式のヘルメットをかぶったアテナと書かれています。こういうとき、ギリシャ語表記とラテン語表記、どっちを採用するのが正式なんでしょうか・・・???
     
         こちらは、立ち入り禁止領域の先にあった胸像。遠くてよくみえなかったけど、もしかしたらティベリウスかも、と思ってズームで撮影しました。
・・・・・・が、う〜ん、あまりティベリウスという感じはしません。大体、ティベリウスが自分の像をかざるか???顔はアウグストゥスっぽいですね
 ・・・で、下のラベルを拡大して読んでみたら、やはりアウグストゥスでした。 ふ〜ん・・・。自分を不幸に陥れた人だろうに、それでも像を飾るのかと思うとちょっと不思議な気はしますが、ティベリウス的には、やはりアウグストゥスを尊敬していたんでしょうかねえ・・・???

 こちらは、すごくわかりにくいですが、何やら文字が書かれています。ファウスティヌス(Faustinus)の詩が刻まれた白大理石の石板の一部だそうで、洞窟の中で見つかったもののようです。     

  左は、2世紀、トライアヌス帝の時代の男性の頭像。右は3〜4世紀、帝政後期、(ディオクレティアヌス帝により始められた)四分統治の頃の男性の肖像。 そういうティベリウスの時代からするとずいぶんと新しい像もあるのですねえ。そうすると、ここの洞窟別荘って、ティベリウスが住んでた頃より後も使用されていたのでしょうか・・・???  ここの詳細な資料を持っていないので、どうも詳細がよくわかりませんね。(手持ちの本とか、写真に撮った解説とかでそういう記述をいつか見つけたら、また紹介します・・・!)

    

  左は、1世紀の女性の頭像。右も1世紀のもので、シレヌス(ディオニュソスの従者の半獣神)の頭像。この辺のものは、ティベリウスも目にしていたもの、なんでしょうか・・・・・・

    
      こちらも1世紀の作品。演劇用マスクで遊ぶ子供の像。
(英語のタイトルにはキューピッドと書かれてますが・・・。)

  こちらは、Palladioの強奪。トロイの町からパラス・アテナを持ち出そうとするオデュッセウスとディオメデスですね。全部は残っていないのですが、想像復元図と、それぞれどの部分かの表示がされているので、イメージがしやすいです。

      

  左はガニュメデスの頭像。右は、鷲にさらわれるガニュメデス。どっちもガニュメデスですね。そしていずれも1世紀のもの。 絶世の美少年だったというガニュメデスですが・・・この彫刻の顔、そんなに美少年な気がしません(笑)。右の像に左の頭が乗っていたのかもしれませんが、それならなぜそのようにセットしなかったんでしょうかね? 頭像のほうにも右みたいな図があったのですが、「この部分」って表示されていなかったので、別の像の同様な部分、というものかもしれなくてよくわかりません。
 
こういう神話モチーフって、ティベリウスはお好きだったんでしょうね・・・。(まあ、ローマ全体の嗜好かもしれませんが・・・) ただ、ティベリウスの時代、と書かれていない1世紀は、もしかしたらティベリウスの時代より後かもしれませんけどね。

   

  こちらは、パスクィーノの群像、と呼ばれるものらしいです。パスクィーノとは、辞書によると「ローマのブラスキ宮殿の側に置かれた、メネラオスパトロクロス像を模した大理石像の俗称。」だそうですが・・・どうもちょっと違うシーンですよね。もっと広義の意味があるのかもしれません。ともかく、トロイア戦争がらみということなのかも。 ちなみにこれは、ヘルメットをかぶったオデュッセウスの頭像と、アキレウスの脚の一部だそうです。アキレウスの亡骸をオデュッセウスが抱えているシーンのようですね。

    
    

  さあ。そして、この博物館の二つ目の目玉展示品がこちら。 ・・・とはいっても、まずは復元像からですが。  これ、すごく巨大な群像です。中央は一つ目の巨人、ポリュペモスです。 眠っている隙に、この巨人の目をつぶして脱出を図ろうとするオデュッセウスと仲間たちの群像です。これも、ティベリウスの時代だそうです。


  実際に残っているのは、そのごく一部ですね。まずは巨人の大きな手と脚。

    

  そしていくつかの人物像。

    

  そして・・・このシーンの主役、オデュッセウス! 顔がラオコーンの神官に似ているような気がしませんか? …と思ったらやはり、スキュラの群像と同様、彼らの作品のようですね。 

    
       ちなみに、オデュッセウスの全体の中での位置は左図のとおり。 もちろんほかの彫像もそれぞれちゃんと位置が記されていましたが、ここでは省略します。

 左は、塑像(粘土とか石膏像だと思います。彫刻でない→コピーっていうニュアンスもあるのかな?)で、同じようなシーン(ポリュペモスの目をつぶす)での、オデュッセウスの仲間の顔なのだそうです。で、ヴィラ・アドリアーナからの発掘品(のコピー)らしいです。 なぜここにそれがあるのかはよくわかりませんね。もしかしたら、ハドリアヌスがここにあったものをヴィラに持ち帰ったってことなのかなあ??
 右は白大理石のデュオニッソス。

   


 そしてこちらがキルケ。オデュッセウスの仲間が豚さんに変身させられてしまったところですね! キルケは結構な美女。 先にも述べましたように、クラウディウスのルーツでもあるお方・・・。

    

 ここからは主に食器類。 まず左の写真ですが、上3つは、7〜13世紀のアンフォラ。中断の両側は8〜9世紀のアンフォラ。 中央は4〜5世紀のアンフォラの破片。掻き絵が施されているようですが、写真では見えませんね。 下段は、12〜13世紀の水盤。 Protomaiolicaの陶器、とのことです。 
 続いて右の写真ですが。まず上段はアフリカの土の?型抜きの?皿。 (ちょっと訳が違うかもですが・・・) 4〜6世紀のもの。中段と下段は、5〜6世紀の皿で、クリスチャンのシンボルである十字架が認められるそうです。写真じゃ全くわかりませんが(笑)。

    

 左の写真は解説の撮影を忘れてました・・・!で、省略。右の写真の上段、とっても見づらい右は紀元前5世紀のアッティカ地方の形の(特徴があるということかな?)赤い焼き物のアンフォラ。 左も壺ですが、こちらはアンフォラではなく、Pelikeと書かれていました。こちらもアッティカ地方の(形の?)もので、やはり紀元前5世紀。中段、まず右は白大理石製の子供の頭像。(英語表記ではやはり、Cupidになってますが・・・) おそらくレリーフの一部と思われるそうで、1〜2世紀のものです。 左側は1世紀の女性の頭像。白大理石製で、女神をかたどったものではないかということです。 下段の右はアントニヌス・ピウスの妻のファウスティーナだそうです。そして真ん中と左側は、大理石製の彫刻の足の部分。帝政時代、だそうです。

    

 壺二つとファウスティーナの頭像のアップがこちら。

  

  数々の彫刻、装飾をご覧いただいた後で、今一度、洞窟の想像復元図を見てみましょう。オデュッセイアの場面を再現した優雅な彫刻たちに囲まれたスペース。夏涼しく冬暖かい(と思われる)、なかなか素敵な場所だったのではないでしょうか・・・。 ここでの落盤の際にティベリウスを助けたというセイヤヌス。彼も・・・始めっから壮大な野心を抱いたわけではないのかもしれません。 重用されていくうちに、増長してっちゃったんでしょうかね・・・。ふと、そんなことを考えてしまいました。





☆ 昼食など ☆


 こんな町はずれの博物館まできて、食事はできるのか・・・?と思ったりした方もいらっしゃるかも?と思い、あえてここで紹介します。
博物館を出て左にちょっと歩いていくと、リストランテ?があります。隣・・・なんでしょうが、結構離れてますね。海の家っぽい雰囲気も感じないでも(笑)。 ともかく敷地が結構広いので、「本当にここ??」って感じでした。
   

 店内はこんな感じ。ちょっと暗くみえてしまいますが、それは外が明るすぎるから・・・。なかなかいい感じのリストランテ?でした。そして、底で飲んだのが右のワイン。ファランジーナという白ワインは、ナポリやカプリ島でもおすすめされるワイン。

    

      これは、この日お付き合いしていただいたドライバーさんが持っていたもの。スペルロンガのマーク?です。
 観光を終えて、スペルロンガの駅に戻ってきました。電車は予想通り、かなり遅れて到着しましたね。     
    

 こうして、スペルロンガ観光は終了。ローマに戻りました。 続いては、戻ってからローマ市内散策です。

 >その2へ続



2013.11.10

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