☆ マリーナ・グランデ (Marina Grande) からの眺め ☆
カプリの表玄関である港の町。カプリには、フェリー、高速船が運航しています。来るときはフェリーでしたが、帰りは高速船。この写真は、港で船を待っているときに撮ったもの。主役が分かりにくいですが(笑)左は、フニコラーレ(ケーブルカー)、右は散々お世話になった小型バス。カプリは道が狭いので、バスも小型のものが走っているんです・・・。
☆ ナポリ中央駅 ☆
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ナポリ中央駅で、また並んで切符を買ったのです が・・・行きと違って、ほんとにムカついたのです〜!! ナポリ人って、列に並んでいても、どんどん抜かしていく し、マナーが悪くてサイテー!!やっと一番前になっても、 横からあふれ出てきて、ぼやぼやしてると、どんどん先に 窓口に行かれてしまうんです・・・。
ちなみに、これは、帰りに乗ったユーロスター。なぜユー ロスターになったのかもよくわからず(苦笑) |
○ フォロ・ロマーノ(Foro Romano)近辺散策 ○
ローマでホテルに荷物を置いてから、歩いてフォロ・ロマーノのほうへ向いました。カピトリーノの丘にも登ろうとしたのですが、なぜか通行止め。警察に誘導されて、いわゆる表側の広場にはいけたのですが、フォロ・ロマーノを望むところに行くことができませんでした。何があったのかなあ・・・
塩野さんが嘆く、“フォーリ・インペリアーリ通り(Via del Fori imperiali)は、訪れたとき工事中でした。車は通っているのですが・・・歩道のほうが工事中で、皇帝像の目の前に行くこともかなわず・・・金網越しに見ることになりました。でもまあ・・・ともかく。この周辺は、古代ローマ関連遺跡の宝庫です。 このあたりは、2007年にも訪れていますので、2007年ローマの旅(1日目)も、ついでにご参照いただけるとありがたいです。 →こちら
☆ トライアヌス帝の市場(Mercati Traianei)、フォロ(Foro Triano)、 およびトライアヌス帝の記念柱(Colonna Traiana) ☆
奥のカーブした建物が市場。その前面一帯がフォロのようです。・・・市場は大きいです!“らら○ーと”とか・・・そういう感じなんでしょうかねえ。以前、タクシーの運転手さんは、「24時間営業だったんだよ!」とおっしゃっていましたが、本当なのかなあ?? 市場は古代の高層建築。高いところでは6層にもなっていて、背後のクィリナーレの丘にささえられている構造です。市場、フォロ共に、2世紀初めに建築家・アポロドーロ・ディ・ダマスコにより作られたそうです。
そして、記念柱。写真は上から順番に載せています。これはやはり、傑作ですね!・・・とはいえ、下から全て見て回るのは大変。エウル(EUR)にある、ローマ文明博物館にレリーフのコピーが展示されていますから、じっくりご覧になりたい方は、そちらに行かれたほうがよいかも。(2007年ローマの旅 4日目 に、ちょっとだけ文明博物館を紹介してます) 柱の高さは、40m。トライアヌス帝のダキア(現在のルーマニア・トランシルヴァニア地方)戦役勝利を記念して作成されたもので、戦役の流れがレリーフで表現されています。先端には、当時は皇帝像が建っていたようですが、中世にS.ピエトロの像に置き換えられたそうです。記念柱は、皇帝の墓として113年に建てられ、117年に亡くなるとここに葬られたそうです。
☆ カエサルのフォロ (Foro di Cesare) ☆
トライアヌスのフォロの道を挟んだ反対側、あたりでしょうか。左の写真の3本の円柱は、ユリウス一族の守護神、ヴェヌスの神殿(Tempio di Venere)跡。右はフォロの側面?で、フォロ・ロマーノへ向う道沿いの部分です。 カエサルのフォロは、紀元前54〜46年にかけて建設されたようです。カエサルは内乱を制した後、首都の再開発に着手し、その一環として、このフォロを建設しました。詳細は、塩野さんの『ローマ人の物語(文庫版12巻)』に記述されています。後の皇帝たちもそれに習い、次々とフォロを建設したので、このあたり一帯が、皇帝たちのフォロが集まる場所になったようです。フォロの中には神殿、商店、オフィス、塾、図書館・・・と様々な機能、施設が存在し、市民生活が渾然一体となって営まれていたようです。さぞかしにぎやかだったことでしょう。
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カエサルのフォロの前には、カエサルの像が立っています。今回 は、像の前面は工事中(後ろは通れますが・・・)なので、金網越し に写真撮影。 このほか、アウグストゥス、トライアヌス、ネルヴァなど、フォーリ・ インペリアーリ通り沿いの各皇帝のフォロの前には銅像がちゃんと 立っています。 |
☆ フォロ・ロマーノ (Foro Romano) ☆
ここは古代ローマでは市民の集会、裁判、商業施設などの集まる公共広場です。開発は、紀元前6世紀ごろ、第5代タルクィニウス王の時代からはじまったようです。ローマは丘の上から栄えていきますが、それまで湿地帯だった低地の干拓が進み、少しずつ公共の建物が建造されていったようですね。ちなみに、ラテン語では“フォールム・ロマーヌム”らしいです。 今回は、カピトリーノの丘から眺めることができなかったので・・・横っちょから眺めてます。中を散策するほどの時間は、残念ながらありませんでした・・・。 カピトリーノの丘からみたフォロ・ロマーノは、07年ローマの旅 1日目 に載せてあります。
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これは、 サトゥルヌス神殿(Tempio di Saturno) 。柱頭はイ オニア式。紀元前42年と、そして紀元4世紀に改築されたのだそ うです。 またの名をアエラリウム(Aerarium)といい、国家の財宝 がここに収められていました。 国庫財産の保管、というと・・・カエサルが軍を率いてルビコン 川を渡ってローマに入ったとき、ポンペイウス派が国庫の財産に 手をつけずに逃げ出した、というエピソードを思い出します(笑)。 このとき・・・元老院の皆様は自分の財産を持ち出すのに精一杯 で、国庫を守ろうとする気概も全くなかったのですね〜。 それにしても・・・こうやって見ると、やっぱり首都ローマの建物 は大きい!カプリのティベリウスのヴィラがいくら立派といって も・・・やはりこういった公共の建物にはかないません(笑) |
こちらは、 クーリア・ユリア 。 元老院議場です。 最初のクーリアが焼けたあとに カエサルが再建し、アウグストゥ スの代(紀元前29年)になって 完成しました。 さらにディオクレティアヌス帝が 建て直し、中世にはこの上に 教会が建てられてしまったそう です。 現在の建物は、ディオクレティア ヌス帝時代の遺跡を元に、近年 復元されたもののよう。 |
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そしてそして・・・いつものこのコリント式の3本柱です!こ れは、 カストルとポルックスの神殿(Tempio di Casotre e Polluce)、 または カストーリ神殿 (Tempio di Castori) と呼ばれています。使用されてい る大理石は、パロス島産ですって。 紀元前499年、7代目の王“尊大な”タルクィニウスとロー マとの間の戦争において、双子の神カストルとポルックス (=カストーリ)がローマに勝利をもたらした、ということでア ウルス・ポストゥミウスが紀元前484年この神殿を捧げたの だとか。そして、この残っている3本柱は、ティベリウスが、 アウグストゥスの後継者として認められた後に再建を手が けた際のものです。これは紀元6年に完成、奉納されたそ うです。ティベリウスは、コンコルディア神殿の修復も手が けたそうですよ♪皇帝になってからは、ローマではほとん ど公共事業を起こさなかったティベリウスの、数少ない建 造物。 |
そしてこの建物。上はローマ市庁舎。下にあるのが、公 文書館 ・タブラリウム(Taburarium) 。紀元前80年に、 独裁者スッラが建設したものです。現在は、カピトリーニ 美術館のコンセルヴァトーリ宮と新宮をつなぐ通路になっ ています。 左の3本柱は、ヴェシパシアヌス帝とティトス帝の神殿 跡。 |
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これは、フォーリ・インペリアーリから見た マクセンティウス帝のバシリカ(Basilica di Massenzio)。 発掘作業は途中のようでした・・・。306年にマクセンティウス帝が建て始めて、コンスタンティヌス帝により完成されたものだそうです。(マクセンティウス帝とコンスタンティヌス帝のバシリカ、と書いてある本もあります)
う〜・・・これ、フォーリ・インペリアーリに面した建物の壁面に飾られたローマ帝国の地図なのですが・・・どの建物横なのかよくわかりません(汗)。ヴェヌスとローマの神殿、あたりかと思っていたのですが、ガイドの地図を確認すると、ちょっと違うような気も・・・・・・。(→ マクセンティウス帝のバシリカの壁面 、という記述を発見!) 白、黒の大理石?などで作成されているもので、アウグストゥスが持っていたとかいう、大理石造りの地図、っていうのも・・・こんな感じなのかな〜、と思いました。左下に、どの時代のものかという記述があります。 この地図、私の持っているガイドブックには載っていないので・・・いつ作られたものなのか、とか詳細は全くわかりません! ・・・ですが、とにかく写真だけは撮っときました(笑)
↓さて、まずは、紀元前8世紀のローマ。ローマの場所に白い点があります。
↓こちらは、紀元前146年、第三次ポエニ戦役終了後のローマ
↓そして、アウグストゥス時代。紀元後14年現在・・・ってことは、アウグストゥスが死去した時ですね。
↓そして、これが最後。ローマの最大版図ですね。98-117年、トライアヌス帝の時代です。
☆ コロッセオ(Colosseo) ☆
左は、フォーリ・インペリアーリから見たコロッセオ。右は、反対側の、ドムス・アウレアのあるエスクィリーノの丘から見たもの。夕日がアーチの間から輝いていて、とても素敵でした♪ ヴェシパシアヌス帝が72年に建造を始め、息子であるティトス帝の時代80年に完成しました。この場所は、ネロ帝のドムス・アウレアのアトリウムの跡地だったそうです。コロッセオの語源は、かつてこの場所の近くに立っていたネロの巨像(Colossus)から。ヴェシパシアヌスは、この巨像を取り除くことはしませんでしたが、顔をネロから太陽神に変えたらしいです・・・。ちなみに、コロッセオの正式名称は、フラヴィウス円形劇場(Amphitheatrum Fravium)、となるそうです。
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こちらは、コロッセオの見学用入り口。本当は、外側の高さで1周し た形状だったのですが、石材持ち出しなどなどで、こんな姿になっち ゃったんでしょうね・・・ コロッセオは、出入り口の巧妙な配置により、非常時には15分で5 万人の観客全員を外に出すことができたそうです。すばらしい!! |
☆ コンスタンティヌス 帝の凱旋門(Arco di Constantino) ☆
コロッセオ横にあるのが、この凱旋門。2007年のページに一応の解説は載せてあります。でも、今見ると説明不足だ〜、と(苦笑)。 『ローマ人の物語』文庫36巻には詳しく解説が出ています。え〜・・・要は、この凱旋門って、過去の建造物のパッチワークで作られているんですね。コンスタンティヌス帝の時代のレリーフはごく一部。しかも・・・そのレベルは、他のものと比べてもお粗末な限りなんです。塩野さんは、『稚拙』と断じています。そしてその理由は、やはり、『国力の低下』。・・・なるほど。以前も思ったんですよね。美術館にあったコンスタンティヌス像も、なんだかちょっとヘンなんです。やはり、技術力が低下し、彫像の描写のレベルも落ちたんじゃないかと思います。・・・ともかく、それを踏まえてよくよくこの門を眺めると・・・ある種感慨深いものがあります。人間のレベルは落ちるんですね。時代が下ると何もかも進歩するとは・・・限らないと。
☆ ドムス・アウレア(Domus Aurea) ☆
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日本語に訳すと、黄金宮殿。ネロ帝が建設しました。・・・ 夕方遅かったので、もう見学はできず。エスクィリーノの丘の かなり広い部分に広がっていそうでした。かの有名な、『ラ オコーン』の彫刻が見つかったのもここだそうです。 64年のローマ市内の大火のあと建設されたのですが、こ れが市民の反感を買ったようです。塩野さんによれば、ネロ は、この宮殿・庭園を独り占めしようと思ったわけではなく市 民にも開くつもりだったようなんですが・・・市民の理解は得 られなかったんですね。ちょっとかわいそうになってしまいま す・・・。 |
○ 帰り道 ○
あとは、たいした写真もないので(笑)まとめて。 エスクィリーノの丘を登り、ぷらぷら歩いてテルミニ駅方面を目指しました。
遠くからみた、サンタマリア・マッジョーレ教会。ローマ4大聖堂のひとつで、ヴァチカンの所有です。 |
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最後は、共和国広場。この晩に泊まったのは、広場に面した『Excedra』という五つ星ホテル。ロビーも部屋も、とっても豪華。でも・・・朝食なんかは、ちょっとイマイチ(場所とか、サーヴィスとかがね!)。そうですね〜、ちょっとリッチなビジネスマン向けホテルなのかな〜、って感じでした。スーツきたビジネスマンが朝食食べながら新聞を読んでいる姿がちらほらいらしたし。(モチロン、うちの会社の出張なんかで泊まれるレベルではございませんが・・・笑)。立地はすごくよいので、場所重視の方にはお勧めなんですけどね!
こうして、イタリア旅行最後の日も過ぎていきました・・・
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