2日目(9日) (その1)

** この日の観光コース **

ヴァチカン博物館 〜 サン・ピエトロ広場/サン・ピエトロ大聖堂 〜 オール・セイント・チャーチ(オペラ鑑賞)

観光シーズンは外したかと思っていたのですが・・・
そんなことはなく、相変わらずヴァチカン博物館の周囲は長蛇の列。結局2時間近く待ちました(涙)。


☆ ヴァチカン博物館(Musei Vaticani)   


 歴代教皇の、いわばプライベートコレクションの集大成・・・である、世界でも指折りの博物館です。大理石?作りの大きなゲートは出口のほう。入り口はこの向かって左側にあります。
 中には、多くの美術館、博物館が続いている、という感じ。それぞれ一つずつでも、かなりの見ごたえが。残念なのは、その時々で入れないコーナーなどがあること。今回も、「クニドスのヴィーナス」を見ることは叶わず・・・(泣)。

 今回。・・・開館時刻の9時をちょっと回ったくらいに到着。すると、このように(↓)既に長蛇の列が城壁に沿って延々と続いています。そして、後ろにも次々と・・・。
 ↓右の写真は、城壁のコーナー上部に掲げられていた(多分)教皇の紋章。 記憶モードですが、歴代教皇の紋章は、楕円の下の部分に、出身家の紋章だか象徴が入っていたかと思います。たとえばバルベリーニ家の場合、ここにある百合の紋章の代わりに蜂の絵が入っていたり・・・。(誰か、ご存知の方、詳しく教えてください〜〜!) なので、同じような紋章でも、いろいろなバリエーションをみることができます。
 あ。何気に、教皇の紋章の左側には、古代ローマ(共和国、帝国)の象徴ともいえる『SPQR』が見えますね〜!ご存知の方も多いとは思いますが、SPQRは、SENATVS POPVLVS QVE ROMANVS(ラテン語表記なので、U→Vなのかな?):元老院並びにローマ市民の略です。塩野さんご指摘のように、ローマの町中のいたるところに、『SPQR』を見ることができます!


  

 延々2時間くらい待たされ、やっと中へ!もう、展示品の数が多すぎて・・・タイトルや解説が表示されていない作品がすごく多いのです(泣)。(部屋の隅に、A3くらいのパスケースに入った解説が置いてあったりもするのですが・・・何しろ分かりにくい!!!)前回の後悔もありましたので、今回は全員でオーディオガイドを借りました。(オーディオガイドを借りるには、パスポートやクレジットカードなど、身分証明するものが必要で、これ(コピー不可)を預けなければなりません。ま、グループで一つでOKですけど。)
 ここには2007年も訪れていますから、過去の記事へのリンクを貼っておきます。こちら→
記事も写真も・・・前回とかなりダブりそうですが、そこのところはご容赦を。・・・でも多分、前回より記事がしつこくなりそう(笑)!
さ〜て、それでは・・・見学開始です!


☆ エジプト美術館 ☆

  
      

 ほんとのエジプトからの発掘品も、もちろん多数展示されていました。・・・ですが。ここで紹介しますのは、それではなく、ヴィラ・アドリアーナ(Villa Adriana)すなわち、ティヴォリのハドリアヌス帝別邸から発掘された、アンティノウス(アンティノー) をエジプトの神に模した像です。・・・でも、こんなカッコでは、アンティノーの「美しさ」は、あまり現れていないような。
 資料には、この像は18世紀に“百の小部屋”(奴隷や衛兵の宿所と考えられている)から無傷で発見されたとあり、ヴィラに隣接したアンティノウスの墓苑の神殿が未完成であったためにしまいこまれていたのだろう、と書かれていました。
 アンティノウスは、小アジアのビティニア生まれ。ハドリアヌス帝の寵愛を受けますが、皇帝一行の御用船でナイル川を航行中に水死します。この原因は不明。塩野さんは、「皇帝の愛を永遠に自分にひきつけておくために、死を選んだのではないだろうか」と。
なるほど。
 最近は、漫画「テルマエ・ロマエ」にもハドリアヌス帝が登場しますので、何となく親近感がわいてしまいます(笑)。・・・まあもともと、私的にはハドリアヌスは好きな皇帝のひとりでしたが。



☆ キアラモンティ美術館(Museo Chiaramonti) ☆



 ローマ時代の彫像・胸像を収めるために、キアラモンティ家出身のピウス7世(1800-1823)の命で作られたもので、1000点あまりの展示品があるそうです。
 長い回廊の両側に、おびただしい数の彫刻が。しかも解説はほとんどナシ。よって、オーディオガイドでもないと、何も分からない、というわけです。ではでは、ここではおなじみのティベリウス帝の彫像を

      

 この彫像、いつ綺麗にしてくれるのかしら・・・と、楽しみにしているんですけどね〜(笑)。まだ、その順番は来ないみたいですね。こちらの彫像はオーディオガイドの解説もありませんでした(泣)。

 さ〜て、そして。こちらのティベリウス!こちらは、両脇の頭像を含めて解説がありました!!これが聴きたかったのよ〜〜♪
 頭像は、向かって左がアウグストゥス、右がティベリウスです♪解説のタイトルは、『二人の大頭部像、および皇帝座像』。




  

 これらの彫刻は全て、1811年にローマの少し北にある「ベイオ」というところで、他の多くの彫刻と共に発掘されたのだそうです。皇帝の儀式で用いられた公共建築物に置かれることになっていたものだとか。美の理想に近づけるために、表情がやわらげられているのが特徴。こういった、皇帝を理想化した様式からか、41〜51年、クラウディウス帝の時代のものの可能性があるそうです。ティベリウスの座像は、ゼウス(ユピテル)の座像に模して作られたもので、首が挿げ替えられているそうです!!(そういえば、以前に日本に来たアウグストゥスの座像もそんな話がありました・・・) 以上、オーディオガイドの解説より。メモ間違いがあるかもしれませんが・・・・・・
 そうか〜、この彫刻って、「表情が和らげられて」いるんだ〜(笑) 確かにかわいいもん♪ ちょっと下から見上げても、やっぱりかわいい〜!
 でも、首が挿げ替えられているなんて、わかりませんね〜。たいした技術だと思います。

 わざわざ「首を挿げ替えて」まで、ティベリウスの座像を作るなんて・・・。案外、嫌われ続けてたわけではないんじゃないかと、思いたいのですが(笑)。
    
      さて。これは、パルミラの『女王』になりたかった、ゼノビア。(・・・だと思います。ローマ人の物語に出ていたから・・・。)
 パルミラは、東西交易の中継地として栄え、「砂漠の真珠」と称えられていました。ゼノビアは、帝国東方全域の司令官となった、オデナトゥスの妻でした。が、267年に夫の殺害された後、パルミラの『女王』として帝国東方を支配下に置き、一時はエジプトまで奪取します。
 ですが・・・結局、272年に皇帝アウレリアヌスによりパルミラは陥落。彼女は捕虜となり、凱旋式で見世物にされた後、ティヴォリのヴィラで余生を過ごしたのだそうです。

 塩野さんによると、彼女は、クレオパトラを目指していたとも。塩野さんの語り口は、いつも女性には厳しいですね(笑)。




☆ 新回廊(ブラッチョ・ヌオーヴォ:Braccio Nuovo) ☆


 キアラモンティ美術館の奥からつながる美術館。ピウス7世の命で建てられ、1822年に完成したもので、ギリシャ彫刻の模作を含むローマ時代の彫刻が展示されています。
 なんと、今回、非常に残念なことに、キアラモンティとここの間の鉄格子が閉じられており、入場できなかったのです!!・・・でも、鉄格子の隙間から、あの『プリマポルタのアウグストゥス』が見えました!そう、あの、カプリ島にもコピーがあった、「まさにアウグストゥス〜!」というような彫刻です!少々悔しいので、前回撮影した写真も載せておきます(笑)。
 この像は、アウグストゥスの死後、妻のリヴィアが作らせたものだそうで、フラミニア街道沿いの彼女のヴィラから1863年に発見されたそうです。

    



☆ 一休み ピーニャの中庭 ☆

 “ピーニャ”は、松かさのこと。正面には、この名の由来となっている、巨大なブロンズ製の松かさが設置されています。これはもともと、パンテオンの近くにあったのだとか。中庭の中心には、写真にあるような、巨大な球体がおかれていますが、これは、彫刻家アルナルド・ポモドーロの作品。芝生が広がる広々としたこの庭は、見学と、そして人混みに疲れた人たちの憩いの場ですね(笑)。でも、ルートに従うと、ここはまだ、ほんの序盤です! 
 中庭にもそれとなくいろいろな展示物があります。下右の写真、白い巨大な頭像がみえるでしょうか。これ、確か、アウグストゥスの頭像です。

  

 

☆ ピオ・クレメンティーノ美術館(Museo Pio-Clementino) ☆



 クレメンス14世(1769−1774)とピウス6世(1775-1799)の希望で、またまたギリシャ・ローマの秀作を収めるために創設されたもの。なぜかこの美術館、いつも一部が入場不可になっていて、今回も入れない箇所がありました。そのせいで、またしても『クニドスのヴィーナス』を見ることは叶わず・・・・・。

ではでは、まずは八角形の中庭(もしくは ベルヴェデーレの中庭)から。ここに展示された作品は、いずれも有名なものばかり。 で、やっぱり、毎度おなじみのものを(笑)・・・。

 その1.『ベルヴェデーレのアポロ』。この整った顔立ちと、美しい肢体!!どこか・・・ベルニーニのアポロとも似てますね。(いや、ベルニーニが、このアポロを意識して作ったのかもしれませんね!)
 これは、アテネのアゴラに置かれていた、(おそらく)レオカレス作(紀元前330-320年前後)のブロンズ像の、ローマ時代紀元2世紀の模刻といわれているそうです。ですが、オーディオガイドによると、異説もあるとか?ともかく、ローマ時代には、結構昔の作品のコピーが作られていたようです。
 下には、全身像も載せておきます。


 




 その2.『ラオコーン』。こちらも、紀元前2世紀のギリシャ彫刻を元に紀元1世紀にローマで作られた模刻。当時の著名な彫刻家である、ハゲサンドロス、アタナドロス、ポリドロスの作。1506年にエスクィリーノの丘から発見され、ミケランジェロが絶賛したそうです。これを、ユリウス2世が購入してヴァチカンに運ばせたのです。
 エスクィリーノの“どこ”か、というと、オーディオガイドのメモと、あちこちの記述・・・どうも、微妙に違います。ドムス・アウレア、もしくはその跡地に作られた「ティトス帝の浴場」か「トライアヌスの浴場」跡・・・まあ、そのどれか、ということで。
 ティトス帝が注文した、とかいう記録もあるそうですが、ネロの時代から存在していたのかもしれません。スペルロンガの洞窟から、同じく3人の作品であるオデュッセウスなどの彫刻が発見されていることから、かつてはティベリウスが持ってた、という可能性だってあるみたい???

 念のため、ラオコーンのエピソードのおさらいを。 トロイア戦争末期、ギリシャ人は木馬を残して(見かけ上)トロイアから撤退しました。木馬を街の中に引き入れようとしたトロイア市民に対し、木馬の中に潜む危険を察知した司祭“ラオコーン”が警告したため、彼はギリシャ側についていた女神アテナの怒りを買い、息子二人とともに海蛇に絞め殺されてしまったのです。そして・・・その後の展開は・・・皆様ご存知の通り。 あ〜あ・・・・・・。
  

    

   その3.『メデューサの首をもったペルセウス』。  1800年ごろ、ナポレオンに美術品が持ち去られたあと、ピウス2世がカノーヴァに製作を依頼したものだそうです。 (これは出典がイマイチ怪しいですが・・・笑)
 何でも、ナポレオンに美術品をがっぽり持っていかれてしまったので、それを補うために新しい作品が作られたようです。

 最初の、ベルヴェデーレのアポロの影響は明らか、と解説されてますね。確かに、雰囲気は似てますかね・・・?










 ベルヴェデーレの中庭から再び建物の中へ。ローマ皇帝の胸像のある『胸像の間』や『動物の間』、クニドスのビーナスの展示されている(はずの)『仮面の小部屋』は通行止め。

これは、庭から建物に入ったところの天井付近。演劇の仮面のような顔が上に飾られています。    

 さあ、そして、ミューズの間の中心に展示されているのが、これまた最も有名な彫刻の一つ、『ベルヴェデーレのトルソ』。ヴァチカンのコレクションに加えられたのは1530年から1536年の間だそうです。ミケランジェロなど、当時の芸術家を感動させたようですね。
 当時からいろいろな解釈がされていたようです。ちょっと古い資料には「おそらく戦うヘラクレスの姿の一部だろう」と書かれています。しかし今日では、自害を思案する、ギリシャの英雄アイアスの像と考えられているようです。この解釈は、想像による彫刻の復元や、
「狂ったアイアス」の座像を示した、有名な「Tabula Iliaca」(→これ、何かわからない・・・現場の英文に書かれているのですが)を含む他の発見に基づいています。神話では、アイアスはオデュッセウスに、死んだアキレスの武具を取られて我を失い、ギリシャ陣営の中にいた動物たちを虐殺しますが、我に帰ったとき自らを恥じて自害します。昔の文人により、このヒーローの記念像がトロイの野に建てられたことが記録されていました。ローマ時代には、おびただしいコピーも作られていたようです。この像は、紀元前1世紀に、アテネの彫刻家アポロニウスによってつくられたものであり、彼の署名が彫られています。

(以上、珍しくも現場にあった説明資料を要約??したものです。でも、私の英文和訳レベルは極めて怪しいので、間違いがあったらすみません〜〜!)

  


 続いては、巨大な円形の間。展示されている彫像も巨大です。ここは18世紀末に、ミケランジェロ・シモネッティにより作られたそうです。中央にある、一枚岩の斑岩製の巨大な丸水盤は直径が5mもあり、18世紀末(だから、この部屋が出来たとき?)に、ドムス・アウレアから移されたのだそうです。床のモザイクは、オルティコリ(ウンブリア州)の温泉跡で発見された3世紀のもの。
 ↓ここで、正面に写っている像は、酒の神(ですかね?)バッカスの姿をしたアンティノウス。皇帝や神などと並んで立っているのですから、破格の扱いですよね〜! ま、アンティノウス自身も、ハドリアヌス帝によって、「神」になっているのですが・・・。

  

 この部屋には、大きな立像の間に小さな胸像も展示されています。 たとえば、このハドリアヌス胸像(左)と、そしてこちらもアンティノウス胸像です。ハドリアヌスの胸像は、ハドリアヌス霊廟(今のサンタンジェロ城ですね)にあったもので、16世紀半ばから知られていたもののようです。また、近代の胸部に、ハドリアヌスの特徴が理想化された肖像がはめ込まれているようです。一方、アンティノウスの胸像は、ハドリアヌスのヴィラから1790年に発見され、すぐに美術館に売られたようです。現場の解説に、ハドリアヌスの「若き“お気に入り”」と表現されてます(笑)。ボリュームのある長い巻き毛が額や首にかかっている、普通とはちょっと違う髪形が特徴。解説の英文がいまひとつ分かりにくいのですが・・・(読解力がなくてすみません!)アンティノウスが“奴隷である”ことなのか、”奴隷となりたての頃”の特徴なのか・・・そんなことを、この髪型は特徴づけているみたい。なお、この像は130〜138年の作品のようです。

  


 続いては、クラウディウス帝の彫像を。
 まず、左の頭像。これは、1779年にOtricoliのバシリカで発見されたもの。樫の葉の市民冠を被ったこの像、元は甥で前の皇帝カリグラの像だったようですが、彼が『記録抹殺刑(damnatio memoriae)』に処されたことを受けて変更がおこなわれたようです。それは、首と比べて顔が小さいこと、また前髪が二重になっていることから判断できます。
当然・・・元の像の前髪が上側のものです。 
 すごいですね〜!他の人の顔に変更って、できるんですね〜!!・・・この像の顔立ち、ちょっとティベリウスにも似ているような気がします。これ、ティベリウスだって言われたら信じそう! ・・・まあ、クラウディウスもティベリウスの甥っ子ですからね。顔の造りは似ていたのかも!?
 続いては、右の大きな立像。これは、Lanuvioで1865年に発見されたもので、ローマの入植地?の劇場を飾っていたようです。これはユピテルの姿をしており、樫の葉の市民冠を被り、足元には(ユピテルのシンボルの)鷲がいます。

 

   

 円形の間を抜けると、ギリシャ十字の間。コンスタンティヌス帝の石棺などがメインの展示品のようですが、そんなものには(失礼!)目もくれず、恒例のアウグストゥス像を。右の写真、下に消火器が(笑)。

  
これは3年前の写真。
既にこの時点でも、綺麗に洗浄されている彫像なので、3年程度では変化は全くないですね。
でも、こっちには、消火器はありません〜(笑)  
 
    
    これは、トゥスコロで発見された、3世紀のモザイク。色鮮やかで綺麗〜♪
 こちらは、五賢帝の一人にして『至高の皇帝』トライアヌス帝。坊ちゃん刈りの髪型が特徴?(笑)。
 ・・・私はどちらかというと・・・こういう、万人受けする人は、あまり好きじゃないのよね〜。むしろ、この人の後でそれなりに苦労した、ハドリアヌスのほうが好きです。・・・ハドリアヌスって、どこか、アウグストゥスの跡を継いだティベリウスと共通点があるような気がするのです。老齢になって別荘を作ったところも似てるし(笑)。ギリシャ好きのところも共通点なのでは・・・?
   
     これは、地図のギャラリーへ向かう途中。修復中なのか、薄い布が張られています。 
 さりげなく壁に飾られていたモザイク。色彩の表現が、ホントに見事なのです・・・。   



☆ 地図のギャラリー(Galleria delle Carte Geografiche) ☆



 フレスコ画で、イタリアの州や、グレゴリウス13世(1572−1585年)時代の教皇領が表されています。当時の著名な地理学者、イニャツィオ・ダンティ作の下絵に基づいて1580年から1585年にかけて製作されました。各州地図には、州都の地図も書き込まれています。

 全部紹介してもしょうがないですからね。とりあえず、カンパニア(CAMPANIA)州を。“CAMPANIA”と書かれたすぐ下にある、横長の島が、カプリ島♪。


 

 こちらは、「ITALIA ANTIQVA」(左)と、「ITALIA NOVA」(右)。古代のイタリアと新しいイタリア。何が違うのかよく分かりません(苦笑)ともかくこの二つの地図は、向かい合った位置に展示されています。

 

   最後はベネチアの小さな地図。小さいって言ったって、結構大きいですけどね。



☆ ラファエロの間 ☆


 前任者(正確には、前々任者??)・アレクサンドロス6世の居住空間に住むことを好まなかったユリウス2世(1503-1513年)が、ニコラス5世が15世紀半ばに建てた部分の上階に移動して居室としました。ここには元々絵が描かれていましたが、ラファエロ・サンツィオ(1483-1520年)が自身のフレスコ画でそれらを消し去りました。部屋は全部で4室あります。
 ちなみに、右の写真は、部屋の床。モザイクです!
  

 とりあえず、今回ここで紹介するのは、下の2枚。左は、「署名の間」にある、『聖体の論議』。右は同じく「署名の間」の『アテネの学堂』。アテネの学堂には、背景にサン・ピエトロ大聖堂を模した古代建築を配し、古代の哲学者や思想家が、当時の人物に似せて描かれています。ラファエロの自画像もあるのですが・・・ちょっとわからないですね。ピンクの旗の下なのですが・・・。
 署名の間は、ラファエロが最初に手がけた部屋で、教皇の図書室であり、公式書類の署名が行われたことからこのような名称となったようです。



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そして・・・ボルジャの居室(塩野さんの著書でも取り上げられている、チェーザレ・ボルジアのお父様・アレクサンドロス6世の
部屋だったようです)などを過ぎ、システィーナ礼拝堂に続きます。礼拝堂は撮影禁止。
・・・当日は、結構乱れていて、「あれ〜。撮ってもよかった??」と思って写真撮ったら・・・「No photo!」と、突然係の方の声が(笑)。
なので、写真は載せないでおきます(笑)。

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☆ ヴァチカン図書館(Biblioteca Apostolica Vaticana) ☆


 ニコラス5世(1451年)とシクストゥス4世(1475年)により創設され、後続の教皇らにより拡張されたもの。写本5万冊と初期刊本7千冊(15世紀の印刷本)、何千もの版画、百万冊に達する本が収められている図書館は、許可を得れば研究者でも利用可能だそうです。
 ・・・とはいっても、今、ここに本が保管されているのではなさそう。去年の映画『天使と悪魔』に書庫のシーンがありました。あれが本物かどうかはわかりませんが、あんな感じで、実際の蔵書は先端の書庫にでもしまわれているのでしょう。
 とはいえ。昔は本や各種資料が大量に保管されていたであろう図書館。ここもすごい広さ。棚ももちろんたくさん!!・・・でもここ、壁のフレスコ画を見るべきだったみたい!!!アウグストゥス帝時代のものがいくつかあったようです・・・がっくし。

 ちなみに、右は、部屋の中に展示されていた、インク壷。去年だかの、古代ローマ展にも展示されていたので、思わず撮ってしまいました(笑)。



最後は、おなじみの2重螺旋階段。しばらく前から、ここは出口になっています。初めて訪れたときには・・・確かここ、入り口だったような気がします。      


 博物館内が延々と続いてしまったので(笑)、一旦ここで切ります。やはり、年々記述内容がしつこくなってますねえ。ともかく、続きは、その2で・・・。


その2へ。 


2010.12.26
2011.1.23修正、追記
 
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